ひきこもりは「恐怖」と「怒り」に圧倒されている 週刊プレイボーイ連載(387)

神奈川県川崎市で51歳の男が、スクールバスを待つ小学生らを刃物で襲い、19人を殺傷したあと自殺するという衝撃的な事件が起こりました。

報道によれば、加害者の男は幼少期に両親が離婚したため伯父に引き取られ、10代後半で家を出たものの、最近になって戻ってきたとのことです。それからはひきこもりのような生活をしており、80代になる伯父夫婦は、自分たちが介護を受けるにあたって、第三者が家に入ってきても大丈夫か、市の精神保健福祉センターに相談していました。

夫婦が男の部屋の前に手紙を置いたところ、数日後、伯母に対して「自分のことは、自分でちゃんとやっている。食事や洗濯を自分でやっているのに、ひきこもりとはなんだ」と語ったとされています。

伯父夫婦は男が仕事に就かないことで将来を心配していたものの、家庭内で暴力をふるうようなことはなかったことから、大きな問題があるとは考えていなかったようです。近隣とのトラブルも報じられていますが、これも言い争いのレベルで、今回のような凶悪事件を予想することは不可能でしょう。

それでも、手紙を介してしか男とやり取りできなかったことからわかるように、家の中で会話がまったくなかったことは確かです。こうしたコミュニケーションの断絶は、ひきこもりの典型的な特徴です。

上山和樹さんは『「ひきこもり」だった僕から』(講談社)で、自身の体験をきわめて明晰な言葉で語っています。上山さんによると、ひきこもりは「怒り」と「恐怖」が表裏一体となって身動きできないまま硬直してしまうことです。

「恐怖」というのは働いていない、すなわちお金がないことで、生きていけないという生存への不安です。男は伯父夫婦からたまに小遣いをもらっていたようですが、2人が高齢で介護を受けるようになったことから、自分一人が取り残されたときのことを考えざるをえなくなったのでしょう。これはとてつもない「恐怖」だったにちがいありません。

「怒り」というのは自責の念であり、そんな状態に自分を追い込んだ家族への憎悪であり、社会から排除された恨みです。この得体のしれない怒りはとてつもなく大きく、上山さんは「激怒」と表現しています。ひきこもりは、一見おとなしくしているように見えても、頭のなかは「激怒」に圧倒されているのです。

そしてこれは重要なことですが、男のひきこもりは性愛からも排除されています。

「自分のような人間に、異性とつき合う資格などない」というのは「決定的な挫折感情」であり、耐えられない認識だと上山さんは書いています。性的な葛藤は「本当に、強烈な感情で、根深くこじれてしまっている」のです。

51歳で伯父の家に居候するほかなくなった無職の男は、これから定職を見つけて自立するのはきわめて困難であり、女性からの性愛を獲得するのはさらに不可能で、伯父夫婦が高齢になったことでこの生活がいずれ終わることを知っていたはずです。

もちろん同じような状況に置かれていても、ひきこもりが社会への暴力につながるケースはきわめて稀で、今回の事件を一般化することはつつしまなければなりません。しかしその一方で、社会的にも性愛からも排除された(とりわけ男性の)ひきこもりの内面を無視することは別の偏見を生むだけではないでしょうか。

『週刊プレイボーイ』2019年6月10日発売号 禁・無断転載