市場の倫理と統治の倫理

チンパンジーのマキャベリ

ここに一人の老いた王がいる。王はいままさに長年の権力の座から滑り落ちようとしている。

王の座を狙うのは、二人の若い騎士。一人は傲慢で剣呑だが、その粗暴さで集団を押さえつけている。もう一人は文武両道で清廉潔白、人望も厚い。

そこで老王は計略を練った。もしもこの二人の騎士が相争えば、乱暴者に勝ち目はない。だが自分が彼の後見人となってちからを貸せば、清廉潔白の騎士といえども手は出せまい。

乱暴者の騎士も、一対一の勝負では勝ち目がないと気づいていた。そこでやむなく老王の提案を受け入れ、権力の一部を譲渡した。こうして老王と乱暴者は、清廉潔白の騎士を抑えて権力を握ったのだが……。

戦国絵巻や三国志、シェークスピアの史劇にも出てきそうな話で、設定を変えればどこかの国の政党や会社の人事争いにも当てはまりそうだが、実はこれはオランダ・アーネムの動物園で暮らすチンパンジーの群れで起きた出来事だ。

この政治劇に登場するのは、老いたボスザル、イエルーンと若い成り上がりのニッキー、誇り高いラウトだ。

ラウトによってボスの座を追われたイエルーンは、ずっと復権の機会を狙っていた。そしてようやく、待ちに待ったチャンスが訪れた。乱暴者のニッキーが、ラウトに挑んだのだ。策略家のイエルーンはニッキーの側に付き、見事、権力の奪取に成功した。こうして老いたイエルーンと嫌われ者ニッキーの二頭体制が発足したが、問題はどちらか一頭では人望(猿望?)の厚いラウトにかなわないことだ。

チンパンジーの世界ではボスザルがメスを独占し、子孫を残すことを許される。若いニッキーとしては、イエルーンが我が者顔でメスと交尾することが我慢ならない。だがイエルーンを追い出せば、ボスの座をラウトに奪われてしまう。

老獪なイエルーンは、きわめて巧みにニッキーとラウトのパワーバランスを利用した。ニッキーが増長すればラウトをけしかけ、ラウトが権力に手をかければニッキーとの同盟を復活させる。こうして緊張を孕みながらも、イエルーンとニッキーの共同支配は4年の長きにわたった。

この関係が終わったのは、イエルーンとニッキーの内部抗争が修復不能になったからだ。とうとうイエルーンは、仲直りを求めるニッキーの抱擁を無視し、協力関係の破綻を宣告した。するとこの機に乗じて、ラウトはたちまちニッキーを追い落とし、ボスの座に着いた。

だがこの権力ゲームは、悲劇的な結末を迎える。なにもかも失ったイエルーンとニッキーがふたたび手を結び、隔離されたケージでラウトを襲撃したのだ。その私刑(リンチ)は残酷をきわめ、発見されたとき、ラウトは全身に深い噛み痕があり、手足の指を何本か失い、陰嚢から睾丸が搾り出されていた(その数日後に死んだ)。

ラウトがいなくなると、ニッキーは当然のごとくイエルーンを追い出し、権力を独占した。するとイエルーンは、別の若いオスをけしかけ、ニッキーに対抗させたのだった……。

権謀術数のかぎりをつくすマキャベリの世界そのままのこの抗争劇がドゥ・ヴァールによって紹介されると、世界じゅうが驚嘆した(『政治をするサル』〈平凡社〉)。裏切と和解、欲望と復讐が織り成す残酷で魅力的なチンパンジーたちの政治ドラマは、これまで「人間的」とされていた要素をすべて含んでいたからだ。

ドゥ・ヴァールは、チンパンジーやアカゲザル、ニホンザルなど社会的な動物たちが、政治空間で“マキャベリ的知性”を発達させてきたことを豊富な例をあげて紹介した(たとえばアカゲザルは、軍隊よりも厳しい階級社会を構成している)。彼らを支配する掟は、たったひとつだ。

「権力を奪取せよ。そして子孫を残せ」

ぼくたちが権力ゲームに夢中になるのは、それが太古の昔に遡る古い起源を持つからだ。権力に執着するどこかの国の老政治家は、チンパンジーのイエルーンと瓜ふたつだ。人間(ヒト)は進化の掟が命ずるままに、何百万年も同じ悲喜劇を繰り返している。

市場の倫理

権力ゲームは、ほとんどのプレイヤーが敗者として淘汰されていくきわめて割の悪いゲームだ。なにしろボスの座を射止めなくては、メスとのセックスが許されないのだから。

これに対して貨幣空間は、まったく異なるルール(市場の倫理)で動いている。

複雑きわまりない政治空間(男女や親子の愛憎も含む)に比べ、貨幣空間の際立った特徴はそのシンプルさにある。ジェイン・ジェイコブズは、統治の倫理と対立する市場の倫理を次のように掲げる。

  • 正直たれ
  • 契約を尊重せよ
  • 他人や外国人とも気安く協力せよ

統治の倫理が名誉を尊び、位階を尊重し、伝統を堅持するのに対し、市場の倫理は協力には協力で報い、外の世界とも積極的に交易し、相手と長期の信頼関係をつくり、権謀術数を避けることを説く。

貨幣空間で行なわれるのはお金儲けゲームだから、当然、そこには次のような倫理もある。

  • 勤勉なれ
  • 節倹たれ
  • 効率を高めよ
  • 新規・発明を取り入れよ

そしてもっとも大事なのは、次の倫理だ。

「競争せよ。だが、殺すなかれ(暴力を締め出せ)」

政治空間の基本は、敵を殺して権力を獲得する冷酷なパワーゲームだ。それに対して貨幣空間では、競争しつつも契約を尊重し、相手を信頼するまったく別のゲームが行なわれている。人間社会に異なるゲームがあるのは、富を獲得する手段に、(1)相手から奪う(権力ゲーム)、(2)交易する(お金儲けゲーム)という二つの方法があるからだ。

権力ゲームとお金儲けゲームは、どちらも社会を成り立たせるための大切な仕組みだ。だがこのふたつのルール(倫理)が混じり合うことで、社会の根幹は腐ってしまうとジェイコブズは憂いた。

権力ゲームとお金儲けゲームは異なる倫理を持っているから、それを意図的に混同すれば、どのような行為も正当化できてしまう。

武士道において清廉が求められるのは、長幼の序を重んじ組織の掟を守るために、市場の倫理を排除する必要があるからだ。家臣が利殖のために他の藩と勝手に交易を始めれば、殿様を頂点とする統治構造はあっという間に崩壊してしまうだろう。汚職や腐敗とは、政治空間をお金儲けゲームに利用することだ。

その一方で、お金儲けゲームに統治の倫理が混入しても社会は混乱する。市場の倫理は企業に対し、あくまでも顧客に誠実であることを要求する。だが権力ゲームは目的のために手段を選ばないから、賞味期限切れのケーキや牛乳を販売したり、かびの生えた古米を新米と偽って利益を上げることも許されてしまう。これでは消費者の信頼を失い、市場経済はその機能を停止してしまうだろう。

だが困ったことに、ぼくたちは政治空間と貨幣空間を容易に切り分けることができない。お金儲けゲームの主役である会社は、ヒエラルキー構造の典型的な政治空間だ(だからコーポーレートガバナンス=会社統治が問題になる)。権力ゲームの中心である政治の場では、景気対策の公共事業や年金改革(これは要するに国営保険会社の経営問題だ)が議論されている。

権力を握るためにはお金がかかり、お金を儲けるためには権力が必要だ。このようにいつの時代も、政治空間と貨幣空間は相互に浸透しあってきた。

だがぼくたちの時代の特徴として、貨幣空間による政治空間の侵食(その結果としての安心社会の崩壊)という事態が起きている。食品偽装などのスキャンダルも、経済格差などの社会不安も、その多くはここに由来するのだ。

『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』第1稿より