“大誤報”なんてぜんぜん珍しくない 週刊プレイボーイ連載(73)

山中伸弥京都大教授のノーベル医学生理学賞受賞に日本じゅうが湧くなかで、iPS細胞を使った世界初の臨床実験の“大誤報”もたいへんな騒ぎになっています。しかし、マスメディアの誤報というのはそんなに珍しいものなのでしょうか。

そんなことを考えていて思い出したのが、2009年1月に世を騒がせた「かんぽの宿」問題です。かんぽの宿は簡易保険加入者のための宿泊施設でしたが、赤字経営の恒常化で小泉―竹中時代の郵政民営化で売却対象とされ、日本郵政の西川善文初代社長(元三井住友銀行頭取)のときに、土地・建物と従業員の雇用継続込みでオリックス不動産に109億円で事業譲渡されることが決まります。

しかしその後、麻生内閣の鳩山邦夫総務大臣が、「2400億円もかけて取得した施設を109億円で売るのはおかしい」といい出し、それを機に、当時、総合規制改革会議議長だった宮内義彦オリックスグループCEOに国の大切な資産を安売りしようとしている、という批判が新聞やテレビ、週刊誌で連日のように報道されます。それを受けて、野党だった民主党の原口一博議員らが西川日本郵政社長を特別背任未遂などの容疑で東京地検に刑事告発しました。

当時の大騒ぎは覚えているかもしれませんが、この“大問題”がその後、どのようになったのかを気にするひとはほとんどいません。

日本郵政は批判を受けて、弁護士、公認会計士、不動産鑑定士からなる第三者委員会を設置し、かんぽの宿の譲渡契約を再検討しました。第三者委員会は4カ月で報告をまとめ、かんぽの宿の譲渡になんら不正な点がなかったことを明らかにします。

かんぽの宿を一括売却せざるを得なかったのは従業員の雇用を優先したためで、売却価格が109億円なのはそれだけの価値しかない物件だったのであり、オリックス不動産に譲渡されることになったのは入札でもっとも高い価格を提示したからでした。鳩山総務大臣らの批判には、なんの根拠もなかったのです。

民主党の国会議員の刑事告発はというと、2011年3月に東京地検特捜部は、「売却条件にもっとも近い条件を提示したのがオリックス不動産で、任務に反したとはいえない」として不起訴(嫌疑なし)とします。原口議員は前年9月まで日本郵政を管轄する総務大臣の職にあり、無実のひとを犯罪者に仕立て上げようとした行為はきわめて責任重大ですが、ほとんど話題にもなりませんでした。

第三者委員会の調査と東京地検の不起訴によって、「かんぽの宿」問題が政治的なでっち上げであったことが明らかになりました。おかしな大臣によるデタラメな発言によって日本じゅうのメディアが大誤報を連発しましたが、いまだに一行の訂正もされていません。だとしたら、おかしな研究者がデタラメな実験をしたとしたも、たいしたことではないでしょう。

“大誤報”をした新聞社は、3行ほどの訂正記事を出しておけば十分だったのです。

参考文献:『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』

 『週刊プレイボーイ』2012年10月28日発売号
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第22回 不思議な縁もある無縁社会(橘玲の世界は損得勘定)

前回、母が入院したことを書いた。今回も、その時の話だ。

病院のフロアの一角に、自販機と電話、椅子が数脚置かれた談話室があった。私はそこで、面会の許可を待っていた。

談話室の中央に机がひとつ置かれていて、そこで病院のスタッフが見舞客と話をしていた。見舞客は高齢の女性と、それよりすこし若い男性で、最初は姉弟だろうと思った。

患者は脳梗塞で倒れたらしく、一命は取り留めたものの重い障害が残り、1人で生活するのは無理なようだった。かといって介護施設ではない病院に長く入院させることはできず、スタッフが転院先を探しているのだが、すぐに見つかるかどうかわからない。そこで、いったん退院させた後に、受け入れてくれる施設が見つかるまで、しばらく自宅で面倒を見てもらえないかという相談だった。

最初は、よくある話だと思った。高齢者の介護は、どこの家庭でもこれから大きな問題になっていく。

だがそのうち、会話が噛み合っていないことに気がついた。自宅で介護できるかと聞かれて、見舞客の2人は、患者の自宅がどこなのかわからないと困惑しているのだ。

「ところで、患者さんとはどんなご関係なんですか?」

病院のスタッフに訊かれて、男性の方がこたえた。

「関係といわれても、とくにないです」

「それでは、お2人の関係は?」

怪訝そうにスタッフが訊く。

「私たちも、とくに関係はないです」

このあたりから私は真剣に耳を傾けたのだが、男性の説明でなんとなく事情はわかった。

隣にいるおばあさんは近所で長く蕎麦屋をやっていて、男性と患者はその店の常連だった。最近、店に顔を出さないと思ったら、脳梗塞で倒れたと聞いたので2人で見舞いに来た……。

患者は家族とは絶縁しているらしく、これまで誰も見舞いには訪れなかった。そこに2人が現われたので、病院のスタッフはすっかり親族と信じ込んだのだ。

だが驚いたのは、それだけではない。おむつ姿でリハビリをする患者の姿を見て、2人は、退院するのなら自分たちが面倒を見てもいい、と言ったのだ。経済的な援助は無理だが、自宅に通って食事や下の世話をしたり、リハビリを手伝うくらいなら無償でやるというのだ。

病院は身寄りのない患者の扱いにほんとうに困っていたようだが、さすがに赤の他人に押し付けるわけにはいかず、「なんとか親族を探し出して相談してみます」ということで話は終わった。今も蕎麦屋を営んでいるというおばあさんは、「もしご家族に断わられたなら、私が面倒を見させていただきますから」と丁重に頭を下げた。

椅子から立ち上がる時、おばあさんは傍らに立てかけてあった杖を取った。常連客に身体を支えられ、足を引きずりながらエレベータへと向かう後ろ姿を見ながら、「無縁社会にもこんな縁があるんだな」と思った。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.22:『日経ヴェリタス』2012年10月21日号掲載
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地方の支店長が社長に命令する組織 週刊プレイボーイ連載(72)

新党「日本維新の会」を立ち上げた橋下徹大阪市長のいちばんの魅力は、日本の社会に蔓延する前近代的な統治構造を徹底的に批判し、改革したことです。

近代的な統治(ガバナンス)というのは、組織のなかで、責任と権限が一対一で対応していることです。ところが日本の社会では、責任がないひとが大きな権限を持っている、ということが頻繁に起こります。

年金記録問題などで廃止された社会保険庁では、年金データのオンライン化にあたって、労働組合が社会保険庁長官と「覚書」を交わし、勤務内容を細かく指示するばかりか、人事や指揮命令権までが交渉の対象とされていました。このような奇妙な慣行が続いていたのは、社保庁が厚生労働省の外局で、長官が厚労省のキャリア官僚の上がりポストで、現場がひと握りの幹部と労組の「談合」によって波風が立たないように運営されてきたからです。

こうした不祥事は中央官庁だけでなく、全国どの自治体でも見られるものです。とりわけ大阪府や大阪市は、さまざまな歴史的経緯から、労働組合が行政に大きな権限を持っていました。職員へのヤミ給与、カラ残業、ヤミ年金が常態化し、長期勤続や結婚記念日、子どもの誕生記念などの冠婚葬祭のたびに旅行券、図書券、観劇スポーツ観戦券、祝い金・弔慰金が贈られ、そのうえ職員互助組合は交付金で豪華な福利厚生施設を建設していたのです。

弁護士から自治体の首長になった橋下氏は、地方議員と自治体幹部、労働組合が癒着する前近代的な行政組織の実態を白日の下に晒し、市民の怒りを武器に統治構造の改革を迫るという手法で大きな成功を収めました。そしていよいよ、「大阪から日本を変える」国政進出に乗り出したのです。

日本維新の会の理念は「維新八策」に掲げられていますが、そこでも改革の目標は、首相公選制や参議院廃止、道州制(地方分権型国家)など、日本国の統治構造です。大阪で実現した改革を国にまで広げていこうとする戦略は明快です。

しかし日本維新の会には、ひとつ大きな欠陥があります。

国政政党の目的は、選挙で過半数の支持を獲得し、党首を首相にして内閣を組織し、中央省庁を統治して国を動かすことです。ところが党首である橋下市長は自治体の首長のままで、国政選挙に出るつもりはないといいます。

日本国憲法では、内閣総理大臣になれるのは国会議員だけです。維新の会がもし次の衆院選で勝つようなことがあれば、党首である橋下大阪市長よりも格下の党員が日本国の首相になってしまいます。かといって政権奪取を目指さないのなら、国政政党としての自己否定でしょう。

橋下市長は、日本の行政を批判してしばしば「そんなの民間ではあり得ない」といいます。しかしどんな民間企業でも、一地方の支店長が社長に命令することはあり得ません。「日本維新の会」は、国政政党としての統治が崩壊しているのです。

自分の政党の統治すらできない人物に国家の統治などできるはずがない――こうした批判を封じるには、橋下市長自らが党首として国政選挙に出馬し、首相を目指すほかはないでしょう。

 『週刊プレイボーイ』2012年10月22日発売号
禁・無断転載