高校生のセックス相関図から幸福と不幸を考える

「 “モテキ”はなぜやってくるのか?」で“つながり”について書いたが、私たちはいったいどのようにつながっているのだろうか? ここでは、それを可視化してみよう。

以下の3枚の図版は、いずれもニコラス・A・クリスタキス/ジェイムズ・H・ファウラー『つながり 社会的ネットワークの驚くべき力』に掲載されているものだ。

1枚目は、白人生徒が大半を占めるアメリカ中西部の中規模高校(仮名で「ジェファーソン高校」)のセックス相関図だ。

色の濃い点が男子、色の薄い点が女子で、複数の異性とつき合っている場合は2方向(もしくは3~4方向)に枝が伸びている。

これを見るとわかるように、枝の末端にいる生徒を除けば、すべての生徒が複数の異性と性関係を持っている。でもこれは、「アメリカの高校は風紀が乱れている」ということではない。

そもそもなぜ、社会学者がこのようなセックス相関図を描くことができたのだろうか? それはこの高校で、性感染症(梅毒)が広まったからだ。

さらなる感染を防ぐために、患者たちは聞き取り調査によって、病気を移した(移された)可能性のあるセックスフレンドを申告するよう求められた。こうしてできたのが、このセックス相関図だ。

1対1で異性とつき合っている高校生は病気に感染していないので、この相関図には現われない。だからこれは、自分もしくは相手(あるいはその両方)が二股以上をかけている、性に対して積極的な高校生の相関図ということになる。

この相関図を見ればわかるように、生徒たちのつながり(社会的ネットワーク)は本線(幹)と支線(枝)にわかれている。それぞれの枝の部分が、学校における友だちグループだ。

ここから、きわめて単純な規則性を見出すことができる。

ひとつは、「異なる友だちグループ同士は交わらない」ということ。

もうひとつは、「友だちグループのなかで、他の友だちグループと交渉を持つのは一人だけ」ということ。

この特権的なメンバーは通常はグループのリーダーで、彼(彼女)がグループ外の異性とも性関係を持つことで、グループ間で性病が広がっていく。

こうした構造は、不良グループ(「暴走族」や「チーマー」はもう死語ですか?)を考えるとわかりやすい。

グループの末端メンバーは、敵対するグループと出会えばケンカをするだけだ(交わることはない)。グループの垣根を越えて、他のグループのリーダーたちと話ができるのは、ただ一人のリーダーに限定されている(“組長会議”に出られるのが、リーダーの権力の源泉だ)。

ただしジェファーソン高校の相関図を見ると、大きなグループ同士がダイレクトにつながっているわけではないことがわかる。学校集団のなかには、有力な友だちグループには属さず、人気のある(グループのリーダーの)男子や女子とつき合う生徒がいる。トリックスター的な行動をとる彼(彼女)が媒介となることによって、グループ同士がゆるやかな輪を構成するのだ。

これは、学校における噂(情報)の伝わり方を可視化したものでもある。

本線(幹)の部分に位置するAやXの生徒には、さまざまなグループの情報が、いろいろなルートから真っ先に入ってくる。それに対して枝の末端部分に位置するBの生徒は、ネットワークへのアクセス権を持つリーダーから教えられないかぎり、重要な情報を知ることができない。

このように、学校ネットワークの本線にいるのか支線にいるのかで、彼(彼女)の学校生活は大きく変わってくるだろう(自らはグループのリーダーにならなくても、リーダーとつき合うことによって、集団のなかで有利な位置を占めることができる)。

ところでこの法則は、たんに高校生の集団だけに当てはまるのだろうか。

そこで、2枚目の相関図を見てみよう。ジェファーソン高校によく似ているが、これはボストンの西にあるフレーミングハムという小さな町の家族と友人のネットワーク図だ。

この町の病院(フレーミングハム心臓研究所)は、1948年から疫学調査の一環として2年に1回の健康調査を行なっており、全成人の3分の2が参加している(町を離れたひとにも連絡をとり、検査を受けてもらっていた)。

『つながり』の著者たちは、この手書きの膨大なデータから5124人の主要グループに焦点を合わせ、5万を越えるつながりを描き出した。それが、この関係図だ。

すぐにわかるように、アメリカのごく平凡な町の社会ネットワークも、本線(幹)と支線(枝)からできており、異なるグループ同士は交わらない。だがこの調査で興味深いのは、住人の幸福度を調べていることだ。

質問に対して「自分は幸福だ」とこたえたひとは黄色、「自分は不幸だ」とこたえたひとは青色で、「どちらでもない」とこたえたひとは緑色だ。

幸福度のちがいをネットワーク化してみると、ふたつのことがわかる。

ひとつは、幸福なひとと不幸なひとは似たもの同士でグループ化する傾向がある、ということだ(幸福なひとは幸福なひととつき合い、不幸なひとは不幸なひととつき合う)。もちろんこれだけでは因果関係はわからないが、「幸福なひととつき合っていると自分も幸福になり、不幸なひとのそばにいると自分も不幸になる」ということかもしれない。

もうひとつは、幸福なひとは本線(幹)の部分の多く、不幸なひとは支線(枝)の末端部に集まる傾向がある、ということだ。ひとは社会ネットワークから切断されていると、自分を「不幸」と感じるのだ。

もうひとつ、同じフレーミングハム心臓研究所のデータから、喫煙者と非喫煙者のネットワークを見てみよう。

ちょっとわかりくいかもしれなが、黄色が喫煙者で球の大きさがタバコの消費量を示す(大きな黄色の球がヘビースモーカーだ)。非喫煙者は緑色で示されている(拡大図参照)。

この関係図からも、やはりネットワークが本線(幹)と支線(枝)でできていることがわかる。本線を形成しているか、あるいは本線と直接つながる大きなグループを構成しているのは、その大半が非喫煙者だ。

それに対して喫煙者は、次のふたつの特徴を持っている。

ひとつは、喫煙者は喫煙者同士で固まる傾向があること。もうひとつは、ヘビースモーカーであるほど、枝の末端に位置すること。

アメリカ(東海岸)では、喫煙はある種のスティグマになっていて、タバコを吸っていると社会ネットワークから排除されてしまうのだ(あるいは、社会的に孤立したひとが喫煙をする)。

このようにネットワークを可視化してみると、これまで漠然と感じていた人間集団の“つながり”の秘密がはっきりと見えてくる。

それ以外にもつながり 社会的ネットワークの驚くべき力』には、「肥満は伝染する」(知り合いが太っていると、自分も安心して食べてしまう)とか、「転職のときは親しくないひとほど役に立つ」(親しいひとは自分と同じグループに属しているので新しい世界を紹介できない)などの面白いデータがいろいろ紹介されています。興味をもたれたら、ゴールデンウイークにどうぞ。

“モテキ”はなぜやってくるのか? 週刊プレイボーイ連載(47) 

ちょっとした本屋にはかならず“モテ本”のコーナーがあります。その名のとおり、どうすればモテるかを指南した恋愛ハウツー本です。その中身はさまざまですが、多くはモテるファッションや会話術、デートスポットやラブホの誘い方など、個人的な努力について書かれています。

ところで、恋愛には相手が必要です。この世のすべての恋愛術をマスターしても、女の子がいなければ宝の持ち腐れです。

「なにを当たり前のことを」と思うかもしれませんが、これはけっこう奥の深い問題です。モテるために大事なのは、ファッションセンスやシャレた会話ではなく、どれだけ異性と知り合える機会を持っているか――社会的ネットワークのなかで自分がどの場所にいるか――かもしれないのです。

アメリカでは、恋愛行動と性行動についての大規模な社会調査が行なわれています。それによると、知り合いの紹介で配偶者やセックスパートナーと出会ったひとは約7割で、「自力」で出会ったひとは3割程度しかいません。そのなかでももっとも多いのは友人の紹介で、35~40%にもなります(次に多いのは家族による紹介の15%です)。ほとんどのひとは、ゆるやかな友だちネットワークのなかでカノジョ(カレシ)を見つけているのです。

恋愛でなぜ紹介が有効なのかは、ものすごくかんたんに説明できます。バーで(道端や電車のなかでも)ばったり出会った異性のことを、あなたはなにも知りません(当然、相手もあなたのことを知りません)。そんな二人がなにかのきっかけでつき合いはじめて長続きするかどうかは、まさに「神のみぞ知る」です。

ところがあなたの親友のカノジョが、自分の友だちをあなたに紹介する場合、二人のことをよく知っていて、お似合いのカップルだと思っています。自分のことは自分ではよくわかりません。だったら、自分(たち)のことを知っている他人に任せてしまったほうがうまくいく可能性が高いのです。

集団のなかでの恋愛(性愛)行動は、いまでは社会心理学の重要なテーマです。その研究によると、ひとは絶対的な評価(キムタクと比べて8割はイケてる)よりも、所属する集団のなかでの相対的な地位(あいつよりはイケてる)を気にします。

チンパンジーは、アルファオス(アルファメス)を筆頭に、集団内で序列をつくります。これは友だち集団も同じで、アルファオス(男の子のリーダー)はアルファメス(女の子のリーダー)とごく自然にカップルになります。一夫一婦制では、集団内の序列を上げることがよりよい(繁殖力の高い)異性を獲得する鉄板の戦略なのです。

恋愛戦略(繁殖戦略)のちがいで、男と女のすれちがいも説明できます。

さまざまな調査で、女性は、魅力的な女性とつき合っている男性に魅かれることが知られています。これは、モテることが、その男性の繁殖能力の高さの社会的な証明になっているからです。なにかの偶然で素敵なカノジョができると、それと同時に“モテキ”がやってくるのです。

ちなみに男性は逆に、“モテる”女性を避ける傾向があります。競争相手が多いとそれだけ繁殖可能性が下がるのですから、これも「進化論的に合理的」な行動なのです。

参考文献:ニコラス・A・クリスタキス/ジェイムズ・H・ファウラーつながり 社会的ネットワークの驚くべき力』

 『週刊プレイボーイ』2012年4月16日発売号
禁・無断転載

「パブリック」というユートピア思想

Googleが3月に導入した新たなプライバシーポリシーが波紋を呼んでいる。検索サービスのほか、メール、地図、ナビゲーション、写真管理、動画配信(ユーチューブ)、スケジュール管理、自動翻訳、書籍検索、ブログ閲覧など、60以上のサービスで顧客情報を統一して管理し、「利便性を高める」ものだ(玉井克哉〈日経新聞4/11朝刊『経済教室』〉)。

これが「プライバシー侵害」として強く批判されるのは、Googleがネットユーザーのプライバシーを収集し、ビジネス化しようとしている(ユーザーの行動履歴から効率的な広告配信をしようとしている)、と考えられているからだろう。プライバシー権に敏感なEUでは、「忘れられる権利」すなわち自己にかかわるいっさいのデータの消去を顧客が求める権利を立法化しようとしているという(玉井、上記)。

もちろんGoogleが私企業である以上、収益の最大化を目指していることは間違いない。だが今回のプライバシーポリシーの背景には、「パブリック」と「プライベート」の思想的対立、とでもいうようなものがあると思うので、そのことについて私見を述べておきたい。

ジェフ・ジャービスの『パブリック』を読むと、GoogleやFacebookには、「パブリックにすることは善である」という理念があることがわかる。端的にいうと、「プライベート(匿名)をパブリック(実名)に変えていくことでよりよい社会が生まれる」という信念のことだ。

『残酷な世界~』ではこのことを、「伽藍とバザール」で説明した(エリック・スティーブン・レイモンドのに山形浩生氏がつけたタイトルを借用した)。

閉鎖的な伽藍空間では、悪い評判から身を守るために匿名の世界に身を隠す「ネガティブゲーム」がもっとも有利になる。それに対して開放的なバザール空間では、できるだけ多くのよい評判を集めようとする実名での「ポジティブゲーム」が最適行動だ。

これは、退出の自由なバザール空間では、悪い評判はいつでもリセットできるのに対し、退出の許されない伽藍空間では、いちどつけられたレッテルは二度とはがすことができないからだ(伽藍の世界)。

伽藍の世界では、ひとびとは強い閉塞感に耐えて生きていくしかない。自由なバザール空間なら、私たちはずっと容易に自己実現できるだろう……。このように考えれば、サイバー空間のテクノロジーを駆使し、ユーザーをパブリックなバザール空間に誘い出すアーキテクチャを構築することで、よりよい世界をつくることができるはずだ、ということになる。

ジャービスの本によると、アメリカでは“パブリック原理主義者”によるさまざまな実験が行なわれている。

たとえば、ジョシュ・ハリスのドキュメンタリーフィルム『We live in Public(われわれはパブリックを生きている)』。ここでは、私生活がすべてパブリックにされた。

ジョシュは、室内の隅々まで写せるようアパートに32個のカメラを設置して、彼とガールフレンドのすべての行動を100人のボランティアに公開した。シャワー、トイレ、セックス、喧嘩といったまさにプライベートなことすべてが、Webを通じて世界に放送されたのだ。

2人は、ロフトのなかにあるプロジェクターをとおして、ネットユーザーたちが自分たちについて交わす会話を知ることができた。さらには1日に2度、電話を受けて視聴者と会話を交わすことまでした。

この“実験”は1999年に開始され、2000年1月1日に、ニューヨーク市警によって強制的に終了させられた。しかし権力の介入がなくても、このプロジェクトは失敗に終わっていた。

ある日、ジョシュはガールフレンドと大喧嘩をした挙句、彼女を殴ろうとした(ように見えた)ことで、寝室を追い出されてソファに寝ることになる。この“事件”を目撃したネットユーザーたちがジョシュを批判し、ガールフレンドにさまざまな助言をしたことで、二人の関係は破局に至った。

後に、ジョシュは次のように語っている。

「彼ら(ネットユーザー)は彼女に力を与えたけれど、それにはトレードオフがあった。彼女の人間性のひとかけらを取り去ってしまった。彼女の脳の一部が、天上からの存在によって拡張された

ジョシュによれば、彼女は「人生をクラウドソーシングしてしまった」のだ。

もちろんこれだけでは、ただの露出狂か、自己顕示欲の強すぎる男の荒唐無稽な話にすぎない。だがここで考えるべきは、なぜこのような原理主義者(狂信者)が生まれてくるのか、ということだ。

それは、「パブリック」がユートピア思想だからだ。彼らは、プライバシー権を認めず、ネット上の匿名性を剥奪し、すべてのひとがパブリックになるよう「強制」することで、理想世界が実現すると信じているのだ。

このように考えると、Googleの新しいプライバシーポリシーの別の意味が見えてくる。顧客情報を統合して「利便性を高める」のは、ユーザーをバザール世界に誘い出すためだ。あらゆる場面で個人情報が参照されるようになれば、実名でよい評判を獲得することが、匿名で活動するよりも圧倒的に有利になるだろう。これは逆にいえば、実名の履歴(レビューやコメント)が検索できない人間は存在しないのと同じ、という世界だ(Facebookが実名主義を貫くのも同じ理由だ)。

こうしたユートピア思想を持つのは、GoogleやFacebookだけではない。そもそも西海岸(シリコンヴァレー)のサイバーリバタリアニズムは、60年代のカウンターカルチャーの正統な後継者だ。このあたりの思想史的な系譜は池田純一『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』に上手にまとめられているので、興味のある方はご一読を。