2016年はこの国の未来を予感させられる年 週刊プレイボーイ連載(225)

2015年はパリの風刺週刊誌シャルリー・エブド襲撃事件で幕を開け、11月には同じパリで死者130名、負傷者300名以上という同時多発テロ事件が起きました。いずれもIS(イスラム国)などカルト系イスラーム原理主義者の犯行とされていますが、標的が一般市民にまで広がったことで世界に衝撃を与えました。

欧州各国からは依然としてムスリムの若者たちがISに身を投じており、テロの脅威は高まる一方で解決の目処が立ちません。その背景にあるのが、ヨーロッパのキリスト教近代国家とイスラームとの、宗教的、歴史的、文化的、政治的な複雑骨折したような歴史問題です。

日本の植民地主義は日清戦争からの約50年ですが、それでも中国・韓国など近隣諸国とのやっかいな感情的対立を引き起こしました。それに比べても聖地奪還を掲げた十字軍がイスラーム世界に侵攻したのが11世紀後半、新大陸「発見」と奴隷貿易の開始が15世紀末、英仏蘭が植民地の獲得を競ったのは17世紀で、第一次世界大戦ではヨーロッパ列強がオスマン帝国の支配地域を切り刻んだのですから、そこから生じたさまざま矛盾が冷戦終焉後の20年や30年で雲散霧消するわけがないのです。

世界経済では、昨年末にかけて原油価格の急落が金融市場の懸念材料になりました。その背景にあるのは中国経済の減速と“人類史上最大”ともされる不動産バブル崩壊ですが、深刻なのは、現在の原油価格では資源輸出国の財政が破綻しかねないことです。アラブの春の混乱に驚いた湾岸諸国は、社会を安定させ王族による支配を維持するために国民に大盤振る舞いをするようになりました。IEA(国際エネルギー機関)の推計では、アラブ首長国連邦(UAE)の国家予算が前提としている原油価格は1バレル=60~80ドル、サウジアラビアは80~90ドルで、40ドルを割っている現在の水準では大幅な社会福祉の削減が避けられません。ロシアに至ってはさらに厳しく、1バレル=100ドルの原油価格が国家予算の前提です。

2010年からのアラブの民主化運動は、資源価格の高騰でアラブ圏の主食であるパンの値段が上がり、ひとびとの不満に火をつけたことから始まり、リビアやシリアなどの「国家崩壊」に至りました。こんどは逆に、資源価格の暴落が産油国や新興国の社会を不安定にしています。いまは増産で資金を確保していますが、早晩行き詰まるのは明らかで、その影響は今年半ばから本格化してくるでしょう。

昨年は戦後70年ということで、安倍政権の集団的自衛権に反対するデモで国会前は盛り上がりましたが、いまでは話題にもなりません。軽減税率をめぐる大騒ぎを見ればわかるように、国民の関心は日々の生活のことでいっぱいで、(ゼロとはいいませんが)わずかな戦争の可能性などどうでもいいのでしょう。

ほとんど話題になりませんでしたが、財務大臣の諮問機関である財政制度等審議会(財政制度分科会)が2015年10月9日に公表した「我が国の財政に関する長期推計(改訂版)」では、2020年までに財政収支が改善できなかった場合、日本の国家財政は破綻に向かうとはっきり書いてあります。「タイムリミット」まであと5年、今年はこの国の未来を予感させられる年になるのではないでしょうか。

参考記事:2016年はどんな年になるのか? テロの脅威、中国経済の失速、米大統領選、日本経済は…?

『週刊プレイボーイ』2016年1月5日発売号
禁・無断転載

第55回 保険は「夢」を追うものにあらず(橘玲の世界は損得勘定)

2006年の保険業法改正で少額短期保険会社の参入が可能になり、ミニ保険市場が拡大しているという。保険金1000万円まで、保険期間1年(損害保険分野は2年)の制約があるが、持病があっても加入できる医療保険とか、遺産分割や離婚調停で弁護士費用を補償する保険とか、さまざまなニッチを開拓しているようだ。

保険というのは、自分では対処できない出来事に備えるための金融商品だ。日本人は保険に入りすぎだとよくいわれるが、リスク管理が必要な分野はまだまだ残されている。そういうニーズを上手に見つければ、面白いビジネスができるだろう。

でも、日本の保険商品には大事なものが欠けているんじゃないだろうか。

医療保険は入院1日目から保険金が支払われるタイプが人気だが、保険の原則からしてこれはまったく意味がない。1週間程度の入院なら貯金を取り崩せばいいのだから、そのぶん保険料を割り引いてもらった方がずっと得だ。

保険と宝くじは同じ仕組みだが、ひとびとが求めるものはまったくちがう。

宝くじは一等賞金が大きく、くじ代金が安いものが人気だ。当然、当せん確率はものすごく低くなり、ほとんどは払い損になるけれど、「夢を買った」とみんな満足している。

ところが保険加入者は、くじ代金(保険料)を払ったのだから賞金(保険金)をもらわなければ損だと思っている。これは当たりくじがものすごく多い宝くじと同じで、その分コストが高くなるが、なぜかそのことはほとんど気にしない。保険料には保険会社の利益が含まれているのだから、これでは自ら進んで損するのと同じだ。

原則に立ち戻るなら、保険は予想もしなかった出来事で経済的困窮に陥ったときのためのものだ。めったに保険金がもらえない代わりに、保険料が安いのがよい商品の条件なのだ。

医療保険に加入するのは、事故や病気で入院したことで収入が途絶えるリスクに供えるためだろう。日本の場合、特殊なケースを除けば医療費の大半は公的保険で賄えるから、とりあえずは貯金で生活できる。

でも入院が長引くと、蓄えが乏しくなってどんどん不安になっていく。リスク管理はまさにこのときのためのものだから、ほんとうに必要なのは、入院1年後(半年後でもいい)から生活費が支給される医療保険だ。

日本でも入院日数の短期化が進んで、厚生労働省の調べでは統合失調症などは平均入院期間が1年を超えるものの、たいていの病気は長くても1カ月で退院できる。商品設計にもよるけれど、保険対象を限定すれば、超長期入院に備えるための保険料は格安になるだろう。

こういう医療保険なら、月額100円程度で「安心」を買うことができる。でも「賞金」がもらそうにない保険商品はぜんぜん人気がなく、これまでも商品化はすべて失敗してきた。みんな「夢」を買うことに夢中で、経済合理性なんか相手にされないのだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.55:『日経ヴェリタス』2015年12月20日号掲載
禁・無断転載

新年なので、最近考えていることなど

昨年末に『「読まなくてもいい本」の読書案内』を出版して、「これまでとテーマが変わったんですか?」との質問が寄せられたので、新年ということもあり、私のなかでどのようにつながっているのかをちょっと説明したいと思います。

これまで何度か述べてきたことですが、「私たちがこの世界に生まれ、いまを生きているということがひとつの奇跡であり、限られたその時間をできるだけ有効に使うには人生を正しく(合理的に)設計しなければならない」というのがすべての前提です。

私たちは金融資本、人的資本、社会資本という3つの資本から富(ゆたかさ)を得ています。

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これらの資本をすべて失ってしまった状態が「貧困」です。

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これら3つの資本のなかで、金融資本は、金融市場から富を獲得するための投資理論としてモデル化されています。

金融市場についての理論には、経済学の効率的市場仮説と、それを批判したベノワ・マンデルブロのフラクタル理論があります。効率的市場仮説(モダンポートフォリオ理論)は市場を正規分布(ベルカーブ)と統計学で把握しようとするもので、それに対してマンデルブロは、市場はべき分布(ロングテール)の複雑系で、統計的には予測不可能な出来事(ブラックスワン)が頻繁に起こると述べました。いずれも理論の骨格は1980年代にすでに完成しており、30年間、新たなブレークスルーはありません。

さらにいうと、ブラック=ショールズ式によってオプション価格が計算可能になったのは1970年代前半で、それ以降、40年にわたってデリバティブ(先物、オプション、スワップ)を超える金融商品は開発されていません(テクノロジーの進歩によってデリバティブの種類は増えました)。

金融資本については標準的な理論がすでに定まっているので、それをどのように有効活用すべきかという議論が可能です。それ以前に、金融市場から獲得する「富」とは金銭のことなので、話がものすごくシンプルです。リスクが同じなら、より多くの利益を見込めるのがよい投資戦略なのです。-ーこれが最初に金融資本(金融市場)を取り上げた理由です。

金融市場への投資と同様に、私たちは人的資本を労働市場に投資して富を獲得しています。こうした見方を最初に提唱したのは経済学者のゲイリー・ベッカーですが、ベッカーはその際、労働市場の「富」を金融市場と同じく金銭に換算できると考えました。同じ労働時間であれば、より大きな報酬を得られるようにするのが人的資本の有効活用なのです。

この簡略化によって人的資本を経済学的に分析できるようになったのですが、すぐにわかるように、これは私たちの「はたらく」という実感とはかけ離れています。私たちは労働から、金銭以外の「生きがい(内発的動機づけ)」も得ているからです。お金はもちろん大切ですが、人的資本理論の枠組だけでは「はたらく」ということをうまく説明できないのです。

「好きなことを仕事にしたい」とか、「イヤなこと(ムダなこと)をやりたくない」というのは、誰もが共通に望むことでしょう。そこで、日本社会の制度の歪みから人的資本をもっとも効果的に活用する戦略として提案したのが「マイクロ法人」ですが、これは形式的な方法論なので、内容(なにをすべきか)についてこたえるものではありません。

社会資本とは人間関係のことで、社会的動物としての私たちは家族や友人、仕事仲間などから多くの「富」を得ていますが、これは人的資本よりもさらに金銭への換算が困難です。社会資本における「富」とは、幸福のことだからです。

人的資本や社会資本の金銭に換算できない部分はこれまで、成功者の人生訓や宗教で説明されてきました。これをアカデミズムの領域で扱うのが心理学、社会学、哲学などの人文社会科学ですが、そこに統一的な理論があるわけではなく、それぞれのタコツボ的な学問分野のなかで恣意的に語られてきただけです。

ところが20世紀後半から、この分野に大きな知のパラダイム転換が起こりました。これが「現代の進化論」を基礎とする複雑系、ゲーム理論、脳科学、分子遺伝学、統計学(ビッグデータ)などの諸分野で、旧来の人文社会科学はこうした自然科学の侵食を受けてどんどん使いものにならなくなっています。

新しいパラダイムの最大の特徴は、「科学」として、仮説を実験や観察によって検証可能なことです。これによって、タコツボと化した「文系」の学問を統一的な理論によって議論することがはじめて可能になりました。これは知の世界におけるとてつもない衝撃で、日本ではまだ広く受け入れられているとはいえませんが、今後10年のうちに誰の目にも明らかになるはずです。

私たちは幸福になることを目指して生きていますが、幸福は抽象的な概念ではなく、怒りや悲しみと同様に、進化の過程のなかでつくられてきた感情です。「幸福の理論」としての人的資本や社会資本は、哲学や心理学、社会学などの互換不可能な恣意的な理論ではなく、一般化可能な「新しいパラダイム」に則って論じるべきです。

とはいえいきなりこんなことをいっても理解してもらうのは難しいので、その前段階として、いま知の最前線でなにが起きているのかを誰でも(高校生でも)わかるような本が必要でした。ところが日本では、(それぞれの分野におけるレベルの高い入門書はたくさんあるものの)こうした全体像を俯瞰できる手頃な本がこれまでなかったので、次のステップへと至るためにまずはそれを書くことにした、ということです。

私の考えをかんたんにいうと、「金融資本は分散投資し、人的資本は(好きなことに)集中投資する」のが基本戦略です。人的資本は社会資本(評判)につながっていて、より大きな社会資本から私たちは「幸福」を感じることができます(ただし、あまりにも評判が大きくなりすぎるとプレッシャーに押しつぶされたりします)。

それに対して金融資本から得られる効用は、蓄積が少ないときは一気に逓増しますが、一定額を超えると急速に逓減してしまいます。--フェイスブックのCEOマーク・ザッカーバーグは、保有する資産の99%を慈善活動に寄附すると表明しました。

超高度化した知識社会において(知の)イノベーションを起こせるのはシリコンバレーだけで、グーグルやアップル、アマゾン、フェイスブック(あるいは次世代の新興企業)がビジネスインフラ(プラットフォーム)のデファクトスタンダードを競いあっています。それを利用することで、自営業者やマイクロ法人、家族経営の小企業が旧来の大企業と互角のビジネスができるようになる未来がもうすぐやってきます。大企業のメリットは分業の効果を最大化することですが、その反面、大きな管理コストが必要になるため、今後は徐々にそのアドバンテージを失っていくでしょう。

同時に、サイバー化した現代では、私たちを取り囲む世界は、家族や恋人などの最小単位の人間関係と、ネット上の世界大の仮想コミュニティへと二極化していくのではないでしょうか。「知のパラダイム転換」につづいて、こうした「社会のパラダイム転換」がやってくることを前提として人生設計を考える必要があります。

というようなことが私の頭のなかで『「読まなくてもいい本」の読書案内』につながっているのですが、最後に断っておくと、ここから普遍的な「幸福の理論」に到達できる楽観的な見通しを持っているというわけではありません。

PS Amazonに寄せられた書評のほとんどがKindle版での購入になっていることが、もうひとつの「パラダイム転換」ではないかと今回思いました。