第61回 眠れる巨体の恐ろしい正体 (橘玲の世界は損得勘定)

映画『シン・ゴジラ』が観客動員500万人を超える大ヒットを記録している。話題を集める理由はいろいろあるだろうが、いちばんの要因は、ようやくリアリティのあるゴジラ映画の条件が整ったことだろう。

ゴジラ第1作の公開は1954年で、終戦から10年も経っていなかった。東京湾にゴジラが上陸すると空襲警報が鳴り響き、ひとびとは防空頭巾をかぶって逃げ惑うが、当時、映画館に押し寄せた観客の誰もが、まさにこれと同じ体験をしていた。広島・長崎への原爆投下の傷痕も生々しく、遠洋マグロ漁船第五福竜丸がビキニ環礁の水爆実験で「死の灰」を浴び、乗組員が死亡したことは社会に大きな衝撃を与えた。放射能を撒き散らしながら東京を襲う巨大な怪獣は、ものすごいリアリティを持っていたのだ。

その後、経済成長のなかで戦争の記憶が薄れるにつれてこうした現実感もなくなり、子ども向け怪獣映画へと変わっていく。何度か「ゴジラ復活」が試みられたものの、新宿の超高層ビルを見上げるのでは、第1作の迫力には遠く及ばなかった。

だが東日本大震災と福島原発事故によって、ゴジラの「リアル」は復活する。観客は津波によって壊滅した街や、原子炉建屋の爆発で飛散する放射能、メルトダウンした原発に命懸けの放水を行なう消防隊員らの記憶と重ね合わせながら、この映画を観ているのだ。

こうしてゴジラは、「危機管理映画」として見事によみがえった。政府や官庁は平時を前提に動いているため、大地震や原発事故、ゴジラ襲来といった「有事」にうまく対応することができない。映画化にあたっては3.11当時の民主党政権幹部にも徹底した取材を行なったようだが、組織の論理にがんじがらめになりながら、最悪の事態を防ごうと苦闘する様子は真に迫っている。

(以下、ネタバレ注意)映画の最後に、ゴジラはポンプ車から血液凝固剤を注入され、体内の核反応が阻害されて活動を停止する。その場所は、爆薬を搭載した山手線、京浜東北線がゴジラに突っ込んでいく「無人在来線爆弾」からすると、新橋から有楽町あたりになるだろうか。

ところで、東京の中心で活動停止したシン・ゴジラとはなんなのか。再稼動が決まった原発の比喩だと思うひとも多そうだが、これではあまり面白くない。

倒れたゴジラの巨体は、丸の内、霞ヶ関、あるいは日本橋本石町をも覆っているかもしれない。国連(第二次大戦の「連合国」)はゴジラもろとも東京を消滅させる熱核攻撃を「一時停止」したが、ゴジラが目覚めれば「カウントダウン」も再開される。

だとすれば、こたえは明らかだろう。

2010年代に登場したゴジラとは、戦後日本がひたすら膨張させ、日銀の非伝統的な金融政策によって制御不能になりつつある1000兆円を超える巨額の借金のことなのだ。滅亡へのカウントダウンがいつ始まってもおかしくないと思えば、この映画がよりリアルになってくるにちがいない。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.62:『日経ヴェリタス』2016年10月9日号掲載
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死刑はほんとうに「極刑」なのか? 週刊プレイボーイ連載(261)

日本弁護士連合会が10月7日の「人権擁護大会」で死刑制度廃止を宣言しました。きっかけは2014年に袴田事件の死刑囚の再審開始決定が出たことで、「冤罪で死刑が執行されれば取り返しがつかない」というのが理由です。これは杞憂というわけではなく、1990年の足利連続幼女誘拐殺人事件では無実の市民が20年なちかく収監されたように、誤認逮捕はいまでも現実に起きています。

ヨーロッパでは英仏独など主要国が死刑を廃止しており、EU(欧州)は毎年10月10日の「死刑廃止デー」を共催し、国連でも「死刑執行停止決議」が117カ国の賛同を得て採択されています。その一方で日本では、世論の8割が死刑を容認するなど、世界の潮流からかけ離れているように見えます。

主権者である国民の圧倒的多数が死刑を支持しているのだから、民主的な決定に国際社会が口をはさむ権利はない、という主張はそのとおりでしょう。しかし気になるのは、日本では死刑が無条件に「極刑」とされていることです。

2001年6月、大阪の池田小学校に男が乱入し、出刃包丁で児童8名を刺し殺しました。犯人は幼少時代から奇行や暴力行為を繰り返し、強姦事件で少年院に服役したあと、職を点々としますがどれも長つづきせず、「このまま生きていても仕方ない」と思うようになります。しかし自殺する勇気がなかったため、1999年の池袋通り魔事件(2人死亡6人重軽傷で死刑確定)、下関通り魔事件(5人死亡10人重軽傷で死刑執行)を見て、死刑になることを目的に犯行に及んだと供述しています。

事実、男は地裁で死刑判決が出ると控訴を取り下げて死刑を確定させ、その後は「6カ月以内の死刑執行」を求め、執行されなければ精神的苦痛を理由とする国家賠償訴訟請求を起こす準備をしていたといいます。こうした奇矯な行動のためか、判決が確定してからわずか1年で死刑を執行されます。収監中に死刑廃止運動家の女性と獄中結婚し、最期に妻に「ありがとう」の伝言を述べたといいますが、自分が生命を奪った児童やその遺族への謝罪はいっさいありませんでした。

この事件が特異なのは、犯人の望みが死刑になることで、国家がそれをかなえてやっていることです。これでは犯罪者に報償を与えるようなものですが、不思議なことにこのことを指摘したひとはいませんでした。

欧米社会で死刑廃止が受け入れられやすいのは、「人権感覚」が発達しているというよりも、キリスト教において死(最期の審判までの待機)が一種の救済と考えられているからでしょう。

池田小事件の犯人にとって、生は地獄のようなものでした。だとしたらもっとも残酷な刑罰は、仮釈放のない終身刑となって老いさらばえるまで生きながらえることでしょう。それを考えると不安でたまらなかったからこそ、死刑の即時執行をひたすら求めたのです。

日本人が死刑を容認するのは、それが残酷な罰だからではなく、「見たくないもの」は目の前から消えてほしいと考えているからです。だからこそ、多くの子どもたちの未来を奪った凶悪犯に「安息」を与えても平然としていられるのでしょう。

『週刊プレイボーイ』2016年10月11日発売号
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天皇の“人権”より伝統を優先する保守主義者 週刊プレイボーイ連載(260)

今上天皇が生前退位を希望していることが明らかになり、政府は一代限りの特別措置法の検討をはじめましたが、この出来事は同時に、日本における「保守主義」の本質をくっきりと描き出しました。

世論調査では9割以上の国民が退位に賛成しているように、天皇が「お気持ち」を表明した以上、それを尊重するのは当然というのが圧倒的多数派であるのは間違いありません。それに真っ向から反対し、「天皇は退位できない」と主張するのが保守主義者です。

そもそも天皇というのは「身分」ですから、身分制を廃した憲法の理念に反しますし、天皇・皇族には職業選択の自由もありません。かつてのリベラル派は天皇制を戦争責任で批判しましたが、最近は「天皇は国家によって基本的人権を奪われている」との論調に変わってきています。これはたしかにそのとおりですが、ヨーロッパの民主国家にも立憲君主制の国はあり、「人権侵害」だけで天皇制を否定するのは説得力がありません。

とはいえ、オランダの王室では3代つづけて国王が自らの意思で退位したように、「自己決定権」の原則は皇室にも及ぶことが当然とされています。イギリスのエドワード8世は離婚歴のある平民のアメリカ女性と結婚するために1年に満たない在任期間で王位を放棄しましたが、これは「皇室から離脱する権利」です。王の条件は「身分」でもそれを選択するのは本人の自由、というのが「リベラルな皇室」の価値観で、「やりたくない」というのを無理にやらせるのでは、天皇制廃止論者が主張する「天皇こそが“現代の奴隷”」を認めることになってしまいます。

しかし保守主義者は、この論理を受け入れることができません。じつは彼らの主張にも一理あって、ヨーロッパには皇族のネットワークがあり、跡継ぎを他国の皇室から迎えることもできますが(よく知られているようにイギリス王室のハノーヴァー家はドイツの皇族です)、日本の皇室ではこのようなことができるはずもありません。海外を見れば皇統の断絶はいくらでもあるのですから、「万世一系」は風前のともしびというのが保守主義者に共通の危機感なのです。

保守派の論客のうち、八木秀次氏は「日本の国柄の根幹をなす天皇制度の終わりの始まりになってしまう」と退位を明確に否定し、桜井よしこ氏は「(高齢で公務がつらくなったのは)何とかして差し上げるべきだが、国家の基本は何百年先のことまで考えて作らなければならない」と述べます。さらに日本会議代表委員で外交評論家の加瀬英明氏は、「畏れ多くも、陛下はご存在事態が尊いというお役目を理解されていないのではないか」とまで述べています(いずれも朝日新聞9月10日/11日朝刊より)。

これらの発言からわかるのは、保守主義者にとって重要なのは天皇制という伝統(国体)であって天皇個人ではない、ということです。これは批判ではなく、保守主義では伝統は人権に優先するのですから、当たり前の話です。

しかしこうした古色蒼然の政治的立場は、もはやひとびとの共感を集めることはないでしょう。戦後の日本社会は、天皇の「人権」を常識として認めるところまで成熟したのです。

『週刊プレイボーイ』2016年10月3日発売号
禁・無断転載