国際人道援助のあまりにも不都合な真実

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなってしまったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2014年1月16日公開の「”悲惨な現場”を求めるNGOの活動がアフリカで招いた不都合な真実」です(一部改変)。

ジェノサイトを生き延びた子ども(ルワンダ・キガリの「ジェノサイド・メモリアル」)(Photo:ⒸAlt Invest Com)

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リンダ・ポルマンはオランダのフリージャーナリストで、世界各地の紛争地帯で国連やNGO(非政府組織)の活動を取材している。『クライシス・キャラバン』(大平剛訳、東洋経済新報社)では、「紛争地における人道援助の真実」という副題が示すように、NGOなどの援助活動がアフリカでどのような事態を招いているかを告発している。

民間人の四肢を切断する反政府組織

アフリカ西部の大西洋岸に位置するシオラレオネはかつてのイギリス領で、首都フリータウンは、18世紀後半の奴隷廃止運動を背景に、解放された奴隷たちの定住地(自由の町)として開発された。その後はイギリス統治下で大学などの教育制度が整えられ、西アフリカの中心地として発展したが、1961年に独立してからは内戦とクーデターを繰り返すことになる。

紛争の原因はダイヤモンド鉱山の利権で、貧弱な軍事力しか持たない政府は南アフリカの鉱山開発会社からPMC(民間軍事会社)の派遣を受け、反政府組織RUF(革命統一戦線)と衝突した。RUFを率いたアハメド・フォディ・サンコーはムスリムで、リビアのカダフィ大佐のもとで軍事訓練を受け、ゲリラの支配下にある鉱山から産出したダイヤモンド(ブラッドダイヤモンド)で武器を購入し、1991年から8年間に及ぶ内戦に全土を巻き込んだ。

RUFは拉致した子どもたちに麻薬と銃を与え、少年兵として戦闘に参加させたが、それと並んで世界を震撼させたのは民間人を襲撃して鉈で手足を切断したことだ。その惨劇は新聞や雑誌に写真入りで報道され、テレビニュースでも何度も放映されたから記憶に残っているひとも多いだろう。

ところでRUFはなぜ、民間人の四肢を切断したのだろうか。

ルワンダやボスニア・ヘルツェゴビナのような民族紛争では、敵対する民族を絶滅させようとする「民族浄化(エスニック・クレンジング)」が起こる。これは悲惨な出来事だが、人類史をひも解けばけっして珍しいことではない。旧約聖書を読めばわかるように、ヒトは紀元前の昔から集団を「俺たち」と「奴ら」に分け、「奴ら」を皆殺しにする蛮行をえんえんと繰り返してきた。

伝統的社会の戦争では、敵の身体の一部を切断するという風習が広く知られている。だがその「身体の一部」とは首のことで、台湾や南太平洋の狩猟採集社会は“首刈り族”と呼ばれていたし、戦国時代の日本でも敵将の首を獲ることが最高の武勲とされていた。それに対して、敵の手や足を切断する風習はどのような伝統的社会でも知られてはいない。

それではなぜ、アフリカの一部でだけ、それも20世紀末になって、手足の切断が始まったのだろうか。これは一般には、「農作業をできなくしてゲリラ組織に依存させるため」などと説明されるが、これではゲリラ組織の負担は重くなるばかりだ。奴隷として働かせるか、殺害して土地を奪うのならわかるが、四肢のない人間を生かしておいても経済的な利益はなにもないように思われる。

リンダ・ポルマンは本書でこの謎を解き明かすのだが、その衝撃的な結論を紹介する前に、国際人道援助を行なうNGOとはどういうものかを説明しておく必要がある。

NGOが支援したルワンダ難民は虐殺の加害者

1994年に起きたルワンダの虐殺では、多数派のフツ族によって少数派のツチ族が殺害され、100日という短期間にルワンダ国民の約2割、80万人が犠牲になった。第2次世界大戦以降で最悪の惨事のひとつとなったこの事件は、映画『ホテル・ルワンダ』や『ルワンダの涙』によって日本でも広く知られている。

ルワンダからの難民が集まったもっとも有名なキャンプが、コンゴ民主共和国(当時のザイール)の国境、キブ湖の畔にあるゴマだ。ポルマンは事件直後、この難民キャンプを取材してなんともいいようのない違和感を覚えた。

ルワンダ虐殺を報じるテレビニュースを観た欧米のひとびとは、鉈で惨殺された死体が道路脇に積み上げられ、川や湖を埋める映像に大きな衝撃を受けた。やがてそれは家財道具を抱えて国境へと逃げ延びるひとびとに変わり、次いでゴマの難民キャンプが大々的に報道された。この一連の流れを見れば、誰もが虐殺の対象となったツチ族のひとたちが難民となって隣国に逃れたと思うだろう(実際、そうして難民化したひとも多かった)。

だが現実はもっと奇怪で複雑だった。

フツ族とツチ族は宗主国だったベルギーが統治のために人工的に生み出した民族で、少数派のツチ族を支配民族として優遇したため1962年の独立前から両者の紛争は始まっていた。このときツチ族の一部が隣国のウガンダに逃れ、そこで軍事組織「ルワンダ愛国戦線(RPF)」を組織した。ルワンダでフツ族による虐殺が始まると、ポール・カガメ(現ルワンダ大統領)に率いられたRPFは混乱に乗じて国内に侵攻し、全土を制圧した。その結果、報復を恐れたフツ族の民衆が大挙して国境を越えて難民化することになったのだ。

欧米のひとびとがテレビで見たゴマの難民たちは、ルワンダでツチ族を虐殺した当事者たちだ。彼らが人力車などで運んでいた「家財道具」は、皆殺しにしたツチ族の家から強奪したものだった。だがこうした事実はほとんど報じられず、「虐殺→難民→人道の危機」という構図に短絡化されることになる。ニュースの限られた時間では、ここで述べたような複雑な背景を説明できないからだ。視聴者は単純でわかりやすい話を求めているのだ。

ゴマの難民キャンプの近くには大型輸送機が発着できる仮設滑走路があった。ルワンダの虐殺と、200万人ともいわれる大量の難民の存在が知られるようになると、その現場を取材しようとジャーナリストたちが飛行機に乗ってやってきた。

それと同時に、ルワンダ難民を“援助”すべく多くのNGO団体がゴマに殺到した。彼らが人道援助の対象にゴマを選んだのはフツ族を支援したいと考えたからではなく、滑走路があって報道陣がいたからだ。

NGOの寄付者(ドナー)は、自分が出したお金が有効に使われて、「人道の危機」にあるひとびとが救われる場面を(安全な場所から)確認して満足感を味わいたいと思っている。これは「消費者」として当然の要求だから、批判しても意味がない。

ドナーから多額の寄付を募ったNGOにとって、難民キャンプの近くに滑走路があるというのはまたとない好条件だ。輸送機をチャーターし、スタッフと援助物資を詰め込めばたちまち「援助」を開始できる。おまけにそこには欧米のジャーネリストやテレビ局のクルーが待っていて、彼らの活動を報道してくれるのだ。

虐殺の被害者であるツチ族の難民がどこか別の場所にいたしても、NGOはそんなところには行こうとはしないだろう。援助を開始するまでに何カ月もかかり、おまけに報道もされないのではドナーが納得しないからだ。

NGOにとっては、援助の対象が虐殺されたツチ族であろうが、虐殺したフツ族であろうがどうでもいいことだ。人道主義の原則は「中立性」(二者のどちらかを優先して協力することはない)「公平性」(純粋に必要に応じて援助を与える)「独立性」(地政学的、軍事的、あるいは他の利害とは無関係である)で、人道の危機にあるひとが目の前にいれば助けるのが当然だとされている。この原則は一見素晴らしいが、どこか偽善的でもある。「あなたのお金で救われたのは、ついこのあいだまでルワンダでツチ族を虐殺していたひとたちです」という事実はけっしてドナーには伝えられないからだ。

ビジネスとしての国際人道援助

ゴマの難民キャンプでポルマンは、NGOが行なう国際人道援助とは、紛争や虐殺などを「商材」にしてドナーから寄付を募り、“よいことをして満足したい”という願望をかなえるビジネスだと気づく。本書のタイトルである「クライシス・キャラバン」とは、 “悲惨な現場”を求めて世界じゅうを転転とするNGOのことをいう。

ビジネスである以上、成功したNGOは大きな利益を上げることができる。紛争の現場にいる「人道援助コミュニティ」の白人たちは、破壊された町のレストランやバーで毎日のようにパーティを開き、10代の売春婦を膝の上に乗せている。彼らは自分たちが“特別”だと考え、その法外な特権を疑うことはない(国連職員の特権意識はさらに肥大している)。

こうしたNGOの腐敗も欧米では広く知られていて、その結果、自分個人のNGOを立ち上げるひとたちが増えているという。こうしたNGOは「モンゴ(MONGO)」と呼ばれている。“My Own NGO”の略だ。

典型的なのはアメリカ南部の教会の敬虔な信者で、彼/彼女はアフリカの悲惨な現状と堕落したNGOの実態を知って、自ら教会で寄付金を集め現地に赴く。

しかしここでも、同じ問題が起きる。信者のお金を預かってアフリカまで来たからには、なんらかの成果を出さなければ帰れない。そこで難民キャンプにある病院に行き、手足を失った“かわいそうな子ども”を紹介してもらう。その子どもたちに義手や義足を与えて、喜ぶ姿をビデオや写真に撮るためだ。そのため難民キャンプには、義足ばかり何十本も持っている子どもがいる。そののたびにいくばくかの現金をもらえるから、いい商売になるのだ。

その後、MONGOたちは手足のない“かわいそうな子ども”をアメリカに連れ帰るようになった。教会のドナーたちの前で、最新型の人工装具をプレゼントするセレモニーを行なうのだ。だが成長期の子供の装具は数年で取り替えなければならず、子どもたちをアフリカに戻せばすぐに役に立たなくなってしまう。

なかには障害のある子どもを養子にしてあちこちの教会を連れ回したり、テレビに出演させたりするMONGOもいる。養子縁組は、字の読めない両親の代わりにシオラレオネの行政府が許可している。賄賂と引き換えに子どもを両親から引き離し、NGOに売っているのだ。

この“誘拐”がなくならないのは、人道援助の証拠を地元に持ち帰ることがきわめて宣伝効果が高いからだ。教会の信者たちは、“かわいそうな子ども”が自由の国アメリカで幸福を手にする姿を目の当たりにして随喜の涙を流すのだ。

これはシオラレオネだけのことではなく、アフリカ各地で孤児院が大きなビジネスになっている。たとえばリベリアでは、孤児院に住んでいる子どもたちの大半は孤児ではなく両親がいる。国際援助を引き寄せるために、孤児院の所有者によって人買い同然の方法で集められてきたのだ。

こうした子どもたちはアメリカやヨーロッパの養親のもとに送られるが、扱いにくいことがわかると即座に「返品」されてしまう。そうすると別の人権団体が、この「返品」を反人道的だとして抗議活動を行なうのだという――。

人道援助が難民キャンプでの虐殺を引き起こした

国際人道援助の問題は、それが巨大ビジネスになっていることにある。ビジネスである以上、利益は大きければ大きいほどいい(それを原資により多くのひとを救うことができる)。

NGOの利益の源泉は「悲惨な現場」だ。そこで彼らは、テレビニュースで“悲惨”に見えるひとたちを追い求め、同じように悲惨な生活をしていても“絵にならない”ひとびとを見捨てる。

これはそうとうに歪な状況だが、個々のNGOの努力ではどうすることもできない。ドナーから得られるパイ(寄付金)は限られているが、NGOは乱立しており、彼らを批判するMONGOたちも控えている。ドナーが喜んでお金を出すような演出ができないNGOは、競争から脱落して消えていくしかないのだ。

ところで人道援助が大金の動くビジネスだとしたら、それを受ける側はテントや衣服、食糧だけで満足するだろうか。

難民というと“かわいそうな一般市民”を思い浮かべるが、ゴマにはフツ族の民兵が相当数紛れ込み、難民キャンプを支配していた。難民を援助するにはまずキャンプに入らなければならないが、支配者である民兵たちはその際、NGOに対して「入場料」を徴収する。それ以外にもさまざまな名目でNGOから金銭を巻き上げ、ルワンダに反攻するための武器弾薬を購入していた。

もちろん援助のために現金を支払うことは原則として禁止されているが、ここでも負の競争原理が働いている。支配者に現金を払わない真っ当なNGOは肝心の援助活動ができず、ドナーから見捨てられてしまうのだ。

民兵たちは援助物資を独占し、NGOが支払う給与から“税金”を徴収し、運転手、料理人、清掃人、施設の管理責任者などの仕事を独占した。病院の医師は、朝になるとフツ主義に批判的な患者が消えており、空いたベッドに民兵の家族が寝ていることに気がついた。フツ族の看護師に聞いても、夜中になにが起きたのかはぜったいに口にしなかった。

1995年末時点で、ゴマにある4つの主要難民キャンプではバー2324軒、レストラン450軒、ショップ590軒、美容室60軒、薬局50店舗、仕立屋30軒、肉屋25軒、鍛冶屋5軒、写真スタジオ4軒、映画館3軒、2軒のホテルと食肉解体場が1カ所あった。これらはすべて、NGOの援助でつくられたものだ。難民たちはNGO関連以外のなんの仕事もしていなかったのだから。

ゴマの難民キャンプの民兵たちは、「ゴキブリ(ツチ族)を叩きつぶすことは犯罪ではない。衛生手段なのだ!」というラジオ番組をキャンプ内で流し、夜になると国境を越えてルワンダ領内に入り、ツチ族を殺していた。その結果、ツチ族のルワンダ軍がゴマの難民キャンプを攻撃することになり、キャンプはルワンダ軍の支配下に移り、国連軍の監視の下、ルワンダへの“移送”が始まった。

難民キャンプ解体の様子は、ポルマンの前著『だから、国連はなにもできない』( 富永和子訳、アーティストハウスパブリッシャーズ)に臨場感溢れる描写がある。

国連軍の役割はただ「監視」するだけで、故国への帰還作業はルワンダ軍に任されていた。ルワンダ軍は1000人で、帰還する難民は15万人いた。

ルワンダ政府は難民が途中で新しいキャンプをつくるのを恐れて、徒歩での移動を許可しなかった。それにもかかわらずルワンダ軍にはトラックがなく、国連軍は移送を手伝うことを許されていない。

こうした状況にもかかわらず「帰還作戦」は始まった。難民たちは移送を拒否して暴れはじめ、それを見てパニックに陥った政府軍兵士は難民に向かって手榴弾を投げ、迫撃砲を打ち込んだ。こうして、国連軍の目の前で数千人の難民が殺害されることになった。そのときNGOはすべて引き上げており、キャンプには誰も残ってはいなかった(戦闘後、国境なき医師団が45分間だけやってきて、暗くなる前に帰っていった)。

これが、人道援助の「成果」だ。

「カット・ハンド・ギャングズ」が生まれた理由

NGOの商材は「悲惨な現場」だ。そうすると、援助を受ける立場からすれば、悲惨であればあるほどNGO(クライシス・キャラバン)が集まってきて大きなカネが落ちるということになる。

では、悲惨な現場とはどういう状況をいうのだろう。

死体の山はボスニアやルワンダでさんざん報道されてしまった。いまでは欧米の「こころやさしき」ひとたちは、多少の“虐殺”くらいでは驚かなくなった。

こうして、国際人道援助におけるイノベーションが起こった。敵を殺すのではなく、四肢を切断して生かしておけば、その方がずっとインパクトのある「絵」になるのだ。

死体には見向きもしなくなったすれっからしの報道カメラマンも、手足のない子どもたちが泣き叫び、地面を這いずり回る場面には殺到する。欧米のメディアで大々的に報道されれば、NGO(クライシス・キャラバン)が大挙してやってくる。このようにして、ドナーの寄付金は子どもたちの四肢を切断した者たちの懐に落ちるのだ。

本書の最後でリンダ・ポルマンは、シオラレオネの反政府軍RUFのリーダー、マイク・ラミンにインタビューする。

ラミンは、「すべてが壊され、あんたたちは修復するのにここにいなかった。あんたたちが気にしていたのは、ユーゴスラビアにおける白人の戦争とゴマのキャンプだった。あんたたちはただ我々に戦い続けさせたんだ」と欧米社会を批判する。そして欧米の注目をふたたびシオラレオネに向けさせ、戦争を終わらせるために「両手切り落とし団(カット・ハンド・ギャングズ)」を組織したのだというのだ。

「かつてないほど多くの四肢切断者を見て、はじめてあんたたちは我々の運命に注意を向け始めたんだ」

罪もないひとたちの手足を無残に切断するのは、NGOからカネをかすめ取ろうと考える者にとってはきわめて「経済合理的」な行動だった。国際人道援助に携わるひとたちは、誰もがこのきわめて不都合な真実に気づいている。

しかし、ふだんは立派なことばかりいっている彼らは一様に口をつぐみ、ポルマンが『クライスシ・キャラバン』で告発するまで私たちが真実を知ることはなかった。

一人でも多くのひとに読んでもらいたい、衝撃的なノンフィクションだ。

禁・無断転載

インフルエンサーがわたしたちを「集団の狂気」に導く 週刊プレイボーイ連載(534) 

ダーウィンのいとこで、啓蒙主義時代のスーパー知識人だった(優生学を唱えたことで悪名も高い)フランシス・ゴルトンは、個人と集団のどちらの意思決定が優れているかを知るために、家畜の品評会で行なわれた牛の体重当てコンテストの投票用紙約800枚を集めました。すると驚いたことに、素人を含む参加者全員の投票の平均は、優勝者(専門家)より正確だったのです。

素人判断は極端に重かったり軽かったりするものの、多数の投票では間違いが相殺されて、平均が正解に近似していきます。ゴルトンのこの発見はその後、独裁政や貴族政より民主政(デモクラシー)の方が優れている根拠として広く知られることになりました。

しかしこの「集合知」には、ひとつ条件があります。コンテストの参加者は、お互いに相談したりせず、牛の体重の予想をただ紙に書いただけでした。この独立性が、「みんなの意見」を正しいものにしているのです。

だったら、みんなが話し合った(独立性の条件が満たされない)場合はどうなるのでしょうか。多くの研究者がこの疑問を検討していますが、その結果はよい話と悪い話に分かれます。

よい話は、参加者が対等な立場であれば、それぞれの意見を個別に投票して集計するよりも、話し合った方がよい結果になることです。それに加えて、参加者が一定以上の知識や能力をもち、なおかつ多様性がある(人種、国籍、宗教、性別、性的指向などが異なる)ほど大きな効果を発揮することもわかりました。社会的・文化的な背景がちがうと思わぬ発想をすることがあり、それがイノベーションにつながるのです。

しかし、全員が対等の立場で議論するという条件はつねに満たされるわけではありません。とりわけSNSでは、際立って大きな影響力をもつインフルエンサーが議論を主導していますが、こうした条件でも集合知は実現するのでしょうか。

ここでもよい話があって、たとえインフルエンサーがいても、集団とは逆の方向に間違っている場合は、正しい答えを得ることができます。牛の体重が500キロで、集団が600キロだと過大評価していた場合、インフルエンサーが400キロに過少評価していると、それに引きずられて集団の意思決定は正解に近づいていくのです。

とはいえ、この設定は現実的とはいえません。陰謀論者たちのインフルエンサーが、陰謀論を否定しているというのは、あまり考えられないからです。実際には、集団が牛の体重を600キロに過大評価していたら、インフルエンサーは700キロや800キロにさらに過大評価していることの方が多いでしょう。ひとびとがなんとなく思っていることを誇張して言語化するからこそ、強い影響力をもてるのです。

このようにインフルエンサーと集団の認知が同じ方向に歪んでいると、話し合いは破滅的な状況を招きます。SNSの時代では、インフルエンサーはますます大きな影響力をもつようになっています。その先にあるのは集合知ではなく、残念なことに、わたしたちは「集団の狂気」へと向かっているようです。

参考:シナン・アラル『デマの影響力 なぜデマは真実よりも速く、広く、力強く伝わるのか?』夏目大訳、ダイヤモンド社

『週刊プレイボーイ』2022年8月29日発売号 禁・無断転載

30年前に予告されていた戦争

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトでロシアのウクライナ侵攻について書いたものを、全6回で再掲載しています。最終回は1998年に刊行され、今年「緊急復刊」された中井和夫『ウクライナ・ナショナリズム 独立のディレンマ』(東京大学出版会)の紹介です。(公開は2022年6月2日。一部改変)

キーウの独立広場に展示された、ドンバス地域で戦うウクライナ兵の写真(2015年9月@Alt Invest Com)

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ロシアによるウクライナ侵攻から3カ月がたったが、いまだに戦争終結のシナリオは描けない。プーチンは当初、数日で首都キーウを占領し、ゼレンスキー大統領を逮捕したうえで傀儡政権を樹立できると考えていたとされる。これが戦略的な大失態であることが明らかになって、いまは東部のドンバス地方に兵力を集め、支配地域の拡大を狙っているようだ。

もちろん、ウクライナが国土の割譲を受け入れるはずもなく、停戦の条件は少なくとも2月24日時点の境界線まで戻すことだろう。だがこれでは、プーチンにとって、これだけの犠牲を払ってなにも得られないことになり、権力の維持が困難になるのではないか。

ロシアへの経済制裁にともなう石油・ガスなどのエネルギー資源の高騰や、世界的な穀物不足により、中東・アフリカなど脆弱な国々の政治・社会が不安定化している。ドイツやフランスは早期に落としどころを見つけたいようだが、この状況を収拾する道はまだ見えない。

両国の関係はなぜこんなにこじれてしまったのだろうか。

ウクライナ問題はロシアのアイデンティティ問題

中井和夫氏はウクライナを含む旧ソ連圏の民族史・現代史の専門家で、1998年に刊行された『ウクライナ・ナショナリズム 独立のディレンマ』(東京大学出版会)が今回のウクライナ侵攻を受けて「緊急復刊」された。

本書は、1991年のソ連崩壊からウクライナの独立、ロシア・ベラルーシ・ロシアによるCIS(独立国家共同体)結成に至る時期に書かれたものを中心に、不安定なこの地域が今後、どうなるのかを論じている。

一読して思ったのは「ウクライナ問題とはロシアのアイデンティティ問題」であることと、現在の紛争は30年ちかく前にすでに予想されていたことだ。私は「構造的な問題はいずれ現実化する」と考えているが、これはその不幸な事例ともいえる。

本書の「おわりに」で中井氏は、「旧ソ連圏が抱えている民族問題で最も深刻なのは、ロシア連邦の外に住むロシア人の問題である」として、ウクライナには1200万人の「残留ロシア人」がいることを指摘している。そのうえでこう書いているが、現在のウクライナ侵攻を評したものだとしてもなんの不思議もない。

ロシア人の多くがソ連解体後、ロシアが不当に小さくされてしまった、大国としてのプライドが傷つけられた、と感じはじめている、彼らのナショナリズムは傷つけられたのである。「傷ついたナショナリズム」は、失われたものを、民族の誇りを取り戻そうとする。「帝国復活」を叫ぶ排外主義的保守派が選挙で躍進するのにはこのような理由があり、基盤があるのである。

ロシア・ナショナリズムが強まり、帝国の復活が主張されると、すぐに問題にならざるを得ないのがロシア以外の地に「差別」を受けながら暮らしているロシア人の問題である。不当に苦しめられている在外同胞を救出せよという声がロシア・ナショナリストからあがるのは当然ともいえよう。そしてこの在外同胞救援は「イレデンティズム(本来ロシアの領土であるべき外国の領地を回収しようとする運動)」にすぐに転化する可能性が高いので、ロシア人の多く住んでいる近隣諸国との国境紛争になる可能性が充分にある。

ソルジェニーツィンが夢見た「聖なるロシア」の復活

1990年秋、在米ロシア人作家ソルジェニーツィンがソ連の2つの新聞(合計2650万部)に『甦れ、わがロシアよ~私なりの改革への提言』を発表して大きな議論を巻き起こした。

1918年生まれのソルジェニーツィンは、スターリンを批判したとして1945年に逮捕され、強制収容所で8年の刑期を終えたあとカザフスタンに永久流刑された。フルシチョフの「雪解け」後に発表した『イワン・デニーソヴィチの一日』が国内でベストセラーになったものの、ブレジネフの時代になるとふたたび迫害され、1970年のノーベル文学賞受賞のあと、74年に国外追放された。ソ連体制下の強制収容所(グラーグ)の実態を告発した大作『収容所群島』はこの時期に書き継がれた。

ドイツ、スイスを経てアメリカに移り住んだソルジェニーツィンは、やがて西側の物質主義を批判するようになり、正教による「聖なるロシアの復活」というヴィジョンを語りはじめた。

ソルジェニーツィンの「提言」を中井氏は、「ソ連という国に未来はなく、ソ連を解体することでロシアを救わなければならない」として「帝国維持派」を批判、「ロシア建設派」を支持したものだと述べる。「植民地を失った日本が戦後発展したように、また帝政ロシア時代の領土であるポーランドとフィンランドを失ってロシアが以前より強国となったようにロシアは今非ロシアの11の民族共和国を彼らが欲しようと欲しまいとロシアから切り離さなければならない」とこの老作家は述べた。

ソルジェニーツィンの構想する「新しいロシア」の建設にとって鍵となるのは「スラヴの兄弟」たち、すなわちウクライナとベラルーシだった。「ロシア、ウクライナ、ベラルーシの全員が、キエフ・ルーシという共通の出自をもっており、キエフ・ルーシの民族がそのままモスクワ公国を創ったのだ」とするソルジェニーツィンは、「血のつながっているウクライナを切り離そうとするのは不当な要求であり、残酷な仕業である」とウクライナの兄弟たちに「同胞」として呼びかけた。ロシアとウクライナとベラルーシのスラヴ三民族で「汎ロシア連邦」を形成すべきだとしたのだ。

それに対してユーラシア主義は、「ロシアがヨーロッパとアジアからなっており、スラヴ系諸民族とトルコ系諸民族、キリスト教徒とイスラム教徒から構成されている」とする。このロシア二元論では、ロシア帝国はかつてのモンゴル帝国の再現であり、ソ連時代の公式見解では、1917年2月のボリシェヴィキ革命によって解体に瀕していたロシア帝国がふたたびユーラシアの帝国として統合されたことになっていた。

ソ連が解体の危機に瀕していた1990年前後には、大ロシア主義と小ロシア主義が対立した。小ロシア主義者は、「ロシアは周辺の諸共和国に恩恵を施しすぎている、ロシアがロシアのためにその人的・物的資源を活用すればロシアはもっと豊かな国となる。ロシアは「帝国」から普通の「ロシア」に回帰すべきである」と主張した。だがこの現実主義は、93年にはロシアの歴史的使命を唱える「大ロシア主義」へと転換していた。「ロシアは本来大国であり、小さくなりすぎた。大国としての威信を傷つけられた」と感じるナショナリズムが、帝国再建の願望や独立した周辺諸国に対する「侮蔑と怒りの感情」とともに復活したのだ。

その意味でソルジェニーツィンの提言は、汎ロシア連邦からユーラシア主義につながるその後のロシアを予見したものといえるだろう。だがここで中井氏は、ユーラシア主義が成り立つためには「ロシア人もタタール人などアジア系民族もともに「ユーラシア人」としてのアイデンティを受け入れる必要がある」と述べ、それが虚構(空理空論)であることを指摘している。

ロシアの外側に取り残されたロシア人

ソ連は100以上の民族からなる多民族国家だったが、民族間には明らかなヒエラルキー(序列)があった。ロシアを筆頭にウクライナなど15の民族共和国があり、1977年憲法ではその下に20の自治共和国、8の自治州、10の自治管区がつくられたが、これらを合計しても53にしかならず、半数の民族にはそもそも自治権が認められていなかった。

ロシア人はソ連では経済的な特権階層ではなかったが、ソ連邦を支え維持していくという「帝国意識」をもった「主導民族」とされた。ロシア共和国のいちばんの特徴は、ソ連時代に「ロシア共産党」がなかったことだ。同様に、民族共和国や自治共和国ごとに設立された内務省や国家安全保安委員会(KGB)も存在しなかった。「ロシア」と「ソ連」は一体化していたのだ。

そのことがよくわかるのが、ロシア人の周辺諸地域への大量移住だ。たとえばエストニアでは、1945年に2万3000人だったロシア人が89年には47万5000人になっている。この移住政策には、「民族・文化的に入り交じったロシア語を話す超民族的「ソヴェト人」の形成を促す目的があった」とされる。だがその結果は大きな社会的混乱で、エストアでも隣国ラトヴィアでも、この時期に移住してきたロシア人に国籍を付与せず、膨大な無国籍者を生み出したことが政治・社会問題になっている。

中井氏によれば、「ロシアのソ連への拡大」は1970年代半ばには逆転し、中央アジアではロシア系住民のロシアへの帰還が顕著になった。「ロシア人の「帝国意志」がしだいに失われるのに伴い、ロシア人の「辺境」進出も終わり、ロシア人は広義の「ソ連」から「ロシア」へ帰還しはじめた」のだ。

こうした人口動態の変化と、民族共和国や自治共和国における民族意識の高まりのなかで、その地域に暮らすロシア人たちは、自分たちが「外国人(Foreigners)」であることを意識させられるようになった。これが「残留ロシア人」で、ウクライナ東部のドンバス地方はその典型だ。ソ連崩壊はロシア人をソ連から「解放」したが、その代償として、ロシアの外に住むロシア人を「外国人」にしたのだ。

ドンバスにはドネツクとルハンスクの2つの州があるが、1990年時点で、ドネツクの44%、ルハンスクの45%がロシア人で、それに加えてドンバスのウクライナ人の34%がロシア語を母語だと答えた。この地域ではウクライナ独立を目指す民族運動は強い支持を得ていたわけではなく、かえってウクライナの「連邦化」を目指す動きが活発化した。これらの組織はドンバスの自治、独自の民警組織、ロシア語をドンバスの国家語とすることなどを要求した。

その背景には、独立後のウクライナにおけるウクライナ語公用化への反発がある。ソ連時代はロシア語が行政機関などで使われる第一言語とされていたのだが、それが「公務員はウクライナ語とロシア語の両方ができなければならない」とされ、一定期間内にウクライナ語とロシア語の両言語の習熟に失敗すると解雇されることになった。とはいえ、行政機関にいるウクライナ人は誰もがロシア語を話せたから、この政策がロシア語しかできないロシア人の排除を目的とするものなのは明らかだった。

ドンバスに住むロシア人はこれを「強制的なウクライナ化」であり、自分たちの(ロシア人としての)アイデンティティを否定するものだと反発し、ロシア語とウクライナ語に同じ地位を付与する「ニ言語政策」を要求した。94年にはドンバスでロシア語を公用語とすることに賛成か反対かを問う住民投票が行なわれ、90%以上の圧倒的賛成で「二言語政策」が支持されたが、当時のクチマ大統領はこの住民投票を無効として拒否した。

スターリンの民族浄化

ドンバスよりさらにやっかいなのは、2014年にロシアが一方的に占拠・実効支配したクリミアだ。そもそも、黒海に突き出たこの半島はどこに帰属するのだろうか。

クリミアは古来、黒海貿易の要衝で、紀元前からギリシア人が多くの植民都市を建設した。セバストポリ郊外のヘルネソス遺跡はその代表的なものだ。

キーウ・ルーシが衰退すると、クリミア半島はステップ地帯の遊牧民が支配し、モンゴルによるキプチャク汗国が衰えたあとはクリミア・タタールの建てたクリミア汗国の祖地となった。「タタール」はモンゴル系やテュルク系などさまざまな遊牧民の総称だ。

クリミア・タタールの支配は14世紀から18世紀末まで長期にわたるが、それとは別に、14世紀にクルミア半島北部のステップ地帯にコサック集団が成立した。コサックは「群れを離れた者」を意味するトルコ系の言葉で、最初のコサックは、本来所属しているクリミア汗国から離れてステップ地帯で自由に活動するようになったトルコ系クリミア・タタールの集団だった。

このステップ地帯に15世紀末、主に逃亡奴隷からなるスラヴ人コサックが南下してきて、16世紀末にはドニエプル川中流のザポロージェを中心に強大なコサック共和国を築いた。17世紀半ばにモスクワの支配に服し、コサック自治共和国として100年ほど維持されたものの、1776年、エカチェリーナ二世によって自治は廃され、ザポロージェの本営も破壊された。10年後、クリミア汗国もロシア帝国に併合され、ロシア帝国は黒海艦隊を有することになった。

この歴史からわかるように、クリミアはもともとタタール人の国で、その北部にスラヴ系のコサックの国があった。ロシア革命後の1920年代にはクリミア・タタール人を中心としたクリミア自治共和国が形成されたが、独ソ戦の末期、クリミア・タタール人が「対独協力」の罪で中央アジアに流刑に処され、自治共和国は消滅しロシア共和国のひとつの州にされた。

1793年の人口調査ではクリミアのタタール人は83%を占めたが、1939年(強制移住前)はロシア人が半分、タタール人が19.4%、ウクライナ人が13.7%となっている。ところが1959年の調査では、クリミア・タタール人は民族名の項目にすらあげられていない。

1944年5月17日の深夜から翌8日の未明にかけて、クリミア半島に住むタタール人はソ連秘密警察部隊によって村の広場や駅に着の身着のままで集められ、家畜運搬用の列車あるいは無蓋貨物列車に乗せられ、行先も告げられないまま強制移住させられた。25万人のひとびとが一夜にして消えてしまうというエスニック・クレンジング(民族浄化)だった。

ちなみに北コーカサスでも、1944年1月23日、スターリンによる強制移住が行なわれ、30万人以上のチェチェン人と9万3000人のイングーシ人が中央アジアに1日で強制移住させられた。のちのフルシチョフの証言によれば、スターリンはウクライナ全土からウクライナ人を移送することも考えたが、数千万の規模の強制移住は非現実的で、断念したという。

クリミア・タタール人のなかに、ドイツ占領下でドイツ軍に協力した者がいたことは確かだが、大部分は赤軍の側に立ってドイツ軍と戦った。だが戦後、共産党はドイツ軍に対抗したパルチザン地下抵抗運動の記録を隠蔽し、クリミア・タタール人全体が祖国を裏切ったという印象をつくりだした。ヒトラーの「東方部隊」に加わったクリミア・タタール人はおよそ2万人と考えられているが、そのほとんどは戦死するか、ドイツの収容所で死亡するかしたため、強制移住された25万のなかに実際に対独協力した者はほとんど含まれていなかったという。

ロシア共和国に編入されたクリミアは、1954年にフルシチョフによってウクラナ共和国に移管された。その背景には諸説あるが、当時、フルシチョフとベリヤのあいだでスターリン死後の権力争いが行なわれており、有力な地方支部であるウクライナ共産党の支持を取り付けようとしたからではないかと中井氏はいう。もちろんこのとき、将来、ウクライナが独立するなどということはまったく想定されていなかった。

クリミア・タタール人は1967年に名誉回復されたものの、クリミア半島への帰還は許されなかった。90年以降、ようやく帰還が認められ、およそ25万人がクリミア半島に住み着いたが、これがロシア系やウクライナ系の住民とのあいだに強い軋轢を生じさせた。このときのクリミアの民族構成はロシア人が67.0%、ウクライナ人が25.8%で、ほとんどがロシア語を第一言語としていた。

このような歴史を顧みれば、クリミア半島の支配を正当化できる理由はロシアにもウクライナにもない。

「新東欧」の誕生と西欧によるロシアの「新封じ込め」

ソ連時代は、オーストリアとチェコスロバキアが「中欧」、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアが「東欧」とされていた。だがソ連が解体すると、「東欧」の東にエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国と、ベラルーシ、ウクライナ、モルドヴァという新しい国が誕生した。

中井氏はこれを「新東欧」と名づけ、「旧東欧」は中欧に含まれることになったという。「概念としての東欧は東に移動した」のだ。

「(今後)旧東欧地域が明確にNATO、EU加盟をめざすことになれば、ロシアとしてはさらなるNATO、EUの東への拡大を阻止するために「新東欧」をバッファ(緩衝地帯)としてロシアの勢力圏に確実に組み込むことが政策の優先順位になる」と20年以上前に中井氏は書いたが、その後の経過はこの予想を正確になぞることになった。

NATOには、1999年にチェコ、ハンガリー、ポーランド、2004年にエストニア、ラトビア、リトアニア、スロバキア、ルーマニア、ブルガリア、スロベニアが加入、EUには2004年にチェコ、スロバキア、エストニア、ラトビア、リトアニア、スロベニア、07年にブルガリアとルーマニアが加盟した。こうして、西欧による対ロシアの「新封じ込め」が完成した。

この動向をロシアは、「冷戦終結で旧ソ連の軍事ブロックは解消したのに、NATOは肥大化して“前進”を進め、ロシアを孤立化させようとしているのではないか」と警戒した。95年にブルガリアを訪問したロシア首相チェルノムイジンは、「NATOの急速な拡大は欧州を2つの陣営に分裂させ、新たな冷戦を引き起こす危険がある」と述べている。

旧東欧とバルト三国がEUとNATOのメンバーになった以上、ロシアにとって安全保障上、死活的に重要なのは、これ以上の「西欧の東進」を阻止し、ベラルーシとウクライナの「新東欧」を自らの勢力圏にとどめておくことだった。

そのウクライナでは、独立以降、スターリン治下のホモドロール(大飢饉)など歴史の見直しが進められた。

東方正教会(ユニエイト)は16世紀後半、ガリツィア(ウクライナ西部で、当時はハプスブルク帝国のポーランド領)で生まれたウクライナ人の宗教だ。カトリック(イエズス会)の活発な布教活動に対抗するため、正教の典礼を用いつつカトリックの教義とローマ教皇の首位権を受け入れる「折衷」宗派がつくられたのだ。ソ連統治下では東方正教会はロシア正教に「合流」させられ、教会財産も移管された。独立後はこれが問題となり、ユニエイト教会の名誉回復、完全な合法化、教会財産の返還、ロシア正教会の謝罪などが要求されるようになった。

それに対してウクライナにおけるロシア正教の代表は、「ウクライナ・カトリック教会の再建を叫んでいる者はごくわずかな狂信者で、その数は数千人にすぎない。彼らは外国勢力と手を結ぶファシストたちである」と反論している(それに対してユニエイトたちは、教会再建を要求する署名を1カ月のあいだに10万通集めて対抗した)。これはペレストロイカ下の1989年のことだが、当時からウクライナの「反ロシア」運動が“ファシスト”と呼ばれていたことがわかる。

5月8日の大祖国戦争(第二次世界大戦)戦勝記念日の演説で、プーチンは「昨年(2021年)12月、われわれは安全保障条約の締結を提案した。ロシアは西側諸国に対し、誠実な対話を行ない、賢明な妥協策を模索し、互いの国益を考慮するよう促した。しかし、すべては無駄だった。NATO加盟国は、われわれの話を聞く耳を持たなかった」「NATO加盟国は、わが国に隣接する地域の積極的な軍事開発を始めた。(略)アメリカとその取り巻きの息がかかったネオナチ、バンデラ主義者との衝突は避けられないと、あらゆることが示唆していた。繰り返すが、軍事インフラが配備され、何百人もの外国人顧問が動き始め、NATO加盟国から最新鋭の兵器が定期的に届けられる様子を、われわれは目の当たりにしていた」などと述べて、ウクライナへの侵攻を正当化した。

四半世紀前に刊行されたこの本を読むと、ソ連崩壊以降、すべてが予定調和のように進んでいったように思えるのだ。

第1回 ロシアは巨大なカルト国家なのか?
第2回 陰謀論とフェイクニュースにまみれた国
第3回 「プーチンの演出家」が書いた奇妙な小説を読んでみた
第4回 「共産主義の犯罪」をめぐる歴史戦の末路
第5回 ロシアはファシズムではなく「反リベラリズム」

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