華僑財閥の孫はデラシネとデカダンの任侠だった

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2012年11月公開の記事です。(一部改変)

onapalmtree/Shutterstock

******************************************************************************************

マレーシア最大の金融機関メイバンクの創業者、邱德拔(Khoo Teck Puat)は東南アジアの華僑を代表する経済人の一人で、シンガポールとロンドンに高級ホテルを所有し、スタンダード・チャータード銀行の最大の株主でもあった。推定資産は43億シンガポールドル(約3000億円)といわれ、生前はシンガポール一の大富豪だった(2004年に87歳で逝去)。アンソニー・クーは、この大富豪の孫にあたる(実名では差しさわりがあるので仮名にする)。

クアラルンプールに行くといったら、香港の知り合いに「アンソニーを紹介してあげるよ」といわれた。といっても、本人に会うまでは華僑財閥の御曹司だとはまったく知らなかった。

よくわからないまま「話を聞かせてくれないか」とメールを送ると、「いいよ。で、どこで会うの?」とものすごくカジュアルな返事が来た。「いっしょに夕食でもどう?」と書いて宿泊予定のホテルを教えると、チェックインしたとたんに部屋に電話がかかってきた(後で考えると、その前にも何度か電話をかけていたのだろう)。まだ夕方5時前だというのに、ホテルの近くまで来ているという。

ロビーで待っていると、巨大なSUVから若い男が降りてきた。長い鎖をあしらった細身のジーンズに皮のブーツ、Tシャツにサングラスといったいでたちで、軍人のように頭髪を短く刈り上げている。一見すると30歳前後だが、実年齢は40代半ばだった。信じられないくらい若く見える。

ブッキ・ビンタンは高級ショッピングセンターや外資系ホテルが集まったクアラルンプールの繁華街で、東京でいうと六本木みたいなところだ。「マレーシアの伝統的なコーヒーショップに行こう」と誘われて、車で連れていかれたのはパビリオンという巨大ショッピングモールだった。ホテルからは歩いて2~3分で、そんな距離なのにわざわざ車で迎えに来たのだ。

ローカルのコーヒーは、ロブスタ豆(粉コーヒー)にコンデンスミルクを入れて甘くした、ベトナムコーヒーによく似た味だった。それを飲みながら、アンソニーは1時間以上にわたって自分の生い立ちを語った。

ようやく話が途切れたので「そろそろホテルに戻るよ」というと、不思議そうな顔で「夕飯を食べるんじゃなかったの?」と訊く。私はすっかり勘違いしていて、夕食にはつき合えないから早く迎えに来たのだと思っていたのだ。

けっきょくその夜は、客家料理のレストランでビールを飲みながら、閉店までアンソニーの話を聞くことになった。彼と出会って、私はようやく「華僑」という生き方をすこし理解できたような気がした。

1万ドルで親から勘当される

ジョホールバルはシンガポールとの国境に近いマレーシア第二の都市で、アンソニーの父親はそこで広大なゴムのプランテーションを経営していた。大銀行の創業者の息子といっても、母親のちがうきょうだいがたくさんいるらしく、銀行経営にかかわっていたわけではない。

アンソニーの子ども時代はまだシンガポールがマレーシアから独立(1965年)したばかりで、国境の周辺は荒くれ者が跋扈していた。プランテーションを管理する父親は常に巨大な拳銃を腰に差していて、子どもの喧嘩にも拳銃を持ったまま相手の家に乗り込み、しばしば警察に通報されたという(拳銃の携行許可は取得していた)。

その当時、祖父はすでにメイバンクを経営していたから一家は相当に裕福だったはずだが、父親は質素と倹約を旨とする厳格なひとで、30年も前に買ったボロボロのベルトを死ぬまで手放さなかったという。もちろん父親は、家族にもいっさいのぜいたくを許さなかった(中国人の子育ては体罰が当たり前だが、子どもに手を上げることはなかったという)。

アンソニーは、兄と姉の3人きょうだいの末っ子だった。父親は教育熱心で、3人とも小学校から、シンガポールの親戚の家に寄宿させられた。

シンガポールの高校を出ると、きょうだい全員がカナダの大学に進学した。超エリートが集まるシンガポール国立大学に入れなければ、アメリカやイギリス、カナダ、オーストラリアなどに留学するのが当たり前だったのだ。

カナダには中国系市民が多く、香港移民が集まるバンクーバーは“ホンクーバー”とも呼ばれるが、それ以外の都市にも必ずといっていいほどチャイナタウンがある。アンソニーが入学したのは、西部カナダでもっとも古い歴史を誇る名門大学だった。
親や親戚の監視から逃れ、自由を手に入れたアンソニーは大学4年間をひたすら遊び暮らした。

大学で知り合った不良グループは、代々伝わる秘密の「鍵」を持っていた。どこの教授室にも出入りできるマスターキーで、試験前になるとこの鍵で教授の部屋に忍び込み、試験問題を盗み出してコピーし、学生に売りつけるのだ。アンソニーの自慢は、同期の遊び人仲間のなかでただ一人、この鍵の管理を任されたことだ。

卒業が間近に迫った頃、シンガポール人の女子学生と同棲していることが親にバレて、父親がカナダにまでやって来た。激怒した父親は、アンソニーに申し渡した。
――マレーシアとシンガポールに戻ってくることは許さない。1万ドル(当時のレートで約150万円)をくれてやるから、後は一人で生きていけ。これが、私からお前への生涯で最後の援助だ。

ポーカーのイカサマ師になる

アンソニーは、とりあえず大学時代の友人がいる香港に渡った。友人たちと飲み明かすうちに1万ドルはたちまちなくなり、仕方なく仕事を探しはじめた。

伝手を頼って入社したのは為替トレーディングの会社だったが、注文はすべて一族からのもので、面白くなくて1年もたたないうちに辞めた。

次に見つけたのは日系の貿易会社で、電子部品を取り扱っていた。当時はまだバブルの余熱が残っていて、日本人の支店長に気に入られたこともあって、ずいぶんといい思いをしたらしい。だがインターネットバブルがはじけると会社の業績は悪化し、香港事務所もほとんど仕事がなくなってしまった。

そんなときアンソニーは、近所のバーでカードゲーム(ポーカーやブラックジャック)のイカサマ師と知り合い、意気投合する。どこでそんな技を身につけたのか訊くと、ロサンゼルスに伝説的な名人がいて、弟子入りすればすべての技を教えてくれるのだという。ただし彼は相当な高齢で、あとどのくらい生きているかわからない……。

この話の魅了されたアンソニーは、イカサマ修業に励むため、会社を辞めてロサンゼルスに渡った。半年間、師のアパートに通いつめ、早朝から深夜までひたすらカードをめくり続ける毎日だったという。

名人からイカサマ技を叩き込まれたアンソニーは、香港に戻ってプロのギャンブラーになった。香港の賭けポーカーは、バーの片隅や個人の家で行なわれる。相手はたいてい酔っ払っていて、そのうえ賭けに熱くなっているから、ハメるのは赤子の手をひねるようなものだという。

知り合いから巻き上げた金で遊んで暮らせる身分になったものの、ギャンブル稼業はほとんどが週末の夜で、それ以外はなにもやることがない。あまりにヒマなので、昼間の仕事を探すことにした。

履歴書に前職を書いたら、地元の貿易会社に採用された。こんどの会社は中国相手にビジネスをしていたので、広州や深圳にも出張するようになった。

その深圳のバーで、アンソニーは運命の女性シュエ(雪)と出会う。

頬に傷のある女性

シュエは内モンゴルの工場で働いていて、たまの休みに同僚といっしょに深圳に遊びに来ていた。彼女もまた、ふつうの人生を歩んできたわけではない。

シュエは、西安近郊のとても貧しい家に生まれた。その地方では、幼い息子のいる家庭が女の子の赤ん坊を引き取って、将来の嫁として育てる風習が残っていた。シュエの両親は、いくばくかの金銭と引き換えに生まれたばかりの娘を売り払ったのだ。

養女となったシュエは裁縫を学び、18歳を迎える頃には一人で食べていけるだけの仕事ができるようになった。手に職をつけようと努力したのは、許婚であるその家の長男とどうしても結婚したくなかったからだ。

ある日シュエは意を決して、家を出て裁縫の仕事で生活していくつもりだと話した。女性の側から婚約を解消されるのは許し難い屈辱で、激怒した許婚はカミソリをつかむと、二度と裁縫ができないようシュエの腕の腱を切断し、頬を切り裂いた。

シュエはそのまま病院に担ぎ込まれ、数ヵ月入院した。ようやく退院すると、許婚から逃れるために辺境の地へと向かったのだ。

シュエと知り合ったアンソニーは、休暇をとっては内モンゴルを訪ねた。

内モンゴル自治区の首都はフフホトだが、シュエのいる町まではそこからバスで10時間ちかくかかる。冬は氷点下40度にもなり、あやうく遭難しかけたこともあるという。そこまでして彼女のところに通ったのは、結婚の許可をもらうためだ。

アンソニーは魅力的な遊び人で、そのうえ大富豪の係累だから、それまで女性に不自由したことはなかった。極貧の家に生まれ、赤ん坊の時に親に売り飛ばされ、顔に深い傷のある女性がそんな男から言い寄られたら、胡散臭く思うのは当然だろう。だからこそアンソニーは、シュエに自分の誠実を証明する必要があったのだ。

2年ほど交際を続けて、ようやくアンソニーはシュエから結婚の同意を得た。彼はシュエのために、香港島の一等地にコンドミニアムを買った。

内モンゴルのたんなる工員から、きらびやかな香港でなに不自由ない生活をするようになったにもかかわらず、シュエはまったく幸福ではなかった。彼女は北京語しか知らないが、香港では広東語か英語を話せないと田舎者とバカにされるのだ。香港の高級すぎる中華料理も口にあわず、一時は深圳にマンションを借りて暮らしていたが、妊娠をきっかけに、アンソニーは香港を引き払ってクアラルンプールに移ることを決めた。

その間に香港の地価は暴騰し、3000万円で買ったコンドミニアムが8000万円で売れた。その金でクアラルンプールの中心街に高級コンドミニアムを購入し、シンガポールの病院で娘を出産した。

クアラルンプールを選んだのは、香港よりも中国人に対する差別が少ない(中国系に対する差別ではなく、地元の華僑が本土から来た中国人を差別するのだ)のと、ジョホールバルに住む母親に孫を見せるためだ。

クアラルンプールではまだなんの仕事もしていないが、ビジネスパートナーとインターネットのベンチャーの話が進んでいるという。それ以外は毎日家にいて、生まれたばかりの娘の世話をするか、趣味で始めたブルーズハープ(ハモニカ)の練習をしている。

高等遊民のアンソニーは、ものすごくヒマだったのだ。

「人生の複雑さに比べたら、金を稼ぐなんて簡単だ」

アンソニーの話を聞きながら、最初に浮かんだのはデカダン(退廃)という言葉だった。

彼にとって生きるとは楽しむことで、額に汗して働くことにはなんの価値も置いていないようだった。ポーカーのイカサマ技に夢中になったのも、それが愚かな人間を騙してかんたんに金を稼ぐ方法だったからだ。酔っ払って大金を賭けるようなバカは、身ぐるみはがれて当然なのだ。

アンソニーの生き方はどこか投げやりで、学生時代からずっと酒と薔薇の日々に明け暮れていた。酒の飲みすぎで肝臓をこわして死にかけたとかで、いまは酒量を抑えているが、チェーンスモーキングは相変わらずだ。

アンソニーから連想したもうひとつの言葉が、デラシネ(根なし草)だ。

20年ちかく香港で暮らしたアンソニーが、さしたる躊躇もなくクアラルンプールに移ったのは、香港に一人の「友」もいなかったからだ。アンソニーは人気者だからたくさんの友人はいたが、彼がイカサマポーカーで金を巻き上げたのそんな友人たちからだった。クアラルンプールのビジネスパートナーもたんなるカネのつき合いで、人間関係は打算でしかない。

アンソニーは英語のほかに北京語、広東語、福建語、台湾語を不自由なく話すから、チャイナタウンのあるところなら、世界のどこでも暮らしていける。だが彼の話を聞いていると、チャイナタウンは「故郷のひとたちが身を寄せ合う街」ではなく、「便利に利用できるカモが集まっている場所」のことだ。

アンソニーと会ったのはちょうど尖閣問題で反日デモが吹き荒れている時だが、中国や中国人に対してもきわめて冷めた見方をしていた。中国人はあまりにエゴイストなので、共産党が暴力でもって縛りつけないと国が崩壊してしまう。「中国人にはデモクラシーは無理」なのだという。

だがその一方で、アンソニーの生き方にはどこか武侠(任侠)的なところがある。

アンソニーの祖父は大銀行の創業者で、ジョホールバルには父親が残した広大なゴムのプランテーションがある。生まれたときから将来が約束されている彼が、人生でただいちど本気で愛したのが、頬に深い傷のある女性だった。

私がこれまで知り合った華僑の何人かは、アンソニーと同じ匂いをしていた。異国の地で成功した厳格な父親がいて、欧米の一流大学を卒業するほど賢いものの、真っ当で退屈な仕事をバカにし、荒唐無稽な一攫千金の夢を追いかける。冷酷なプラグマティストでありながら、家族思いなのも同じだ。彼らの価値観は国家や法律ではなく、家族と任侠道に拠っているのだ。

「今日は君が客人だから」といって、レストランの代金はアンソニーが払ってくれた。ポケットから札束を取り出すと、無造作に紙幣をテーブルの上に投げ出す。

「人生の複雑さに比べたら、金を稼ぐなんて簡単だ」アンソニーはいった。

「数カ国語が話せて計算ができれば、金は苦労しなくても向こうからやってくる。勉強なんかする必要はないし、学歴や資格もいらない。それが、俺が人生で学んだいちばん大事なことだ」

国家の権威を否定し、神も仏も信じず、損得だけで行動する。そんなデカダンでデラシネな華僑は、日本人相手に半日の暇つぶしを終えると、愛する妻と娘のところへ帰っていた。

禁・無断転載