日本がなぜ戦争したかは、新国立競技場問題が教えてくれる 週刊プレイボーイ連載(206)

1923(大正12)年12月27日、国会議事堂に向かう皇太子(後の昭和天皇)の車が狙撃されました。犯人の難波大助は、父親が衆議院議員という山口県の名家に生まれた24歳の若者で、ステッキに仕込んだ散弾銃の銃弾は車の窓を破ったものの、同乗していた侍従長が軽症を負っただけで皇太子には怪我はありませんでした。

欧米のジャーナリストを驚かせたのは、事件よりもその後の出来事でした。

内閣総理大臣の山本権兵衛はただちに辞表を提出し、内閣は総辞職しました。当日の警護の責任をとって警視総監と警視庁警務部長が懲戒免官となったばかりか、道筋の警護にあたっていた(事件を防ぐことはとうていできなかった)一般の警察官までもが責任をとらされて解雇されます。

難波の出身地の山口県の知事と、上京の途中に立ち寄ったとされる京都府の知事は譴責処分となり、郷里の村は正月行事を取り止めて「喪」に服しました。難波が卒業した小学校の校長と担任の教師は辞職し、衆議院議員である難波の父親は自宅の門を青竹で結んで蟄居し、半年後に餓死したのです。

政治学者の丸山真男はこの皇太子狙撃事件を例にあげて、日本社会の特徴は範囲の定めのない無限責任にあると論じました。いったん不吉なことが起きると、関係する全員がなんらかの“けがれ”を負い、批判の矢面に立たされるのです。

こうした無限責任の社会では、いったん責任を負わされたときの損害があまりにも大きいので、誰もが責任を避けようとします。その結果、天皇を“空虚な中心”とする、どこにも責任をとる人間のいない無責任社会が生まれ、破滅的な戦争へと突き進んでいったのです。

新国立競技場の建設計画をめぐる経緯は、戦後70年を経ても、日本が「責任と権限」という近代のルールからかけ離れた社会であることを白日のもとに晒しました。

事業の発注主体であるJSC(日本スポーツ振興センター)も、監督官庁である文部科学省も、オリンピックを招致した国や東京都、JOC(日本オリンピック委員会)などスポーツ団体も、計画にかかわったとされる政治家たちも次々と責任を否定しますが、この異様な光景も、「なにが起きても自分は責任を取らなくてもいい」という無責任を条件に参加しているのだと考えればよく理解できます。

とりわけ落胆させられたのは、競技場のデザインを決める審査委員長を務めた“世界的な建築家”で、2500億円以上の総工費を了承するかどうかの有識者会議を欠席しながら独自に記者会見を開き、「(巨額の総工費を聞いて)『ええっ、本当?』って思った」「1人の国民として『なんとかならんかな』と思っている」とまるで他人事で、建設を請け負うゼネコンが「もうからんでも、日本の国のためだ」といえばいい、などと一方的に自説を主張しました。日本の未来を担う若者たちは、この高名な人物から責任逃れはどうやればいいのかを学んだことでしょう。

過去の戦争をめぐる議論の本質は、中国や韓国からの批判ではなく、いったい誰に戦争責任があるのか日本人自身にもわからないことです。新国立競技場問題は、この疑問にこたえてくれる「生きた教科書」なのです。

参考文献:丸山真男『日本の思想』

『週刊プレイボーイ』2015年8月3日発売号
禁・無断転載