釣銭の返ってこない世界と小銭のない世界〈エジプト旅行2〉

エジプトの古都ルクソールの国立博物館でのことだ。日本人のシニア夫婦が、切符売場の前で200エジプトポンド(約2,800円)札を握りしめて途方にくれていた。事情を聞いてみると、釣銭がないのでチケットを売ってくれないのだという。

博物館の入場料は1人80ポンド(2人で160ポンド)だから、釣りは40ポンド。ところが窓口の女性は、20ポンド紙幣がないので、10ポンドを加えて釣りを50ポンドにしないとチケットは売れないのだという。仕方がないので持ち合わせの小銭で両替してあげたのだけれど、考えてみればこれはずいぶんおかしな話だ。

入場料が1人80ポンドなら、釣銭は20、40、60、80ポンドのいずれかしかない。だったら20ポンド紙幣を窓口にたくさん用意しておけば、チケット売場での無用なトラブルはすべて解消できるはずだ。なぜこんな簡単なことに気づかいないのだろう。

だがこれは特別な出来事ではなく、この国のあちこちで出会う同じようなトラブルのひとつにすぎない。

ルクソールのカフェでビール(生ビール1杯10ポンドとものすごく安い)を飲んで50ポンド紙幣を出すと、ウェイターが3~4人集まって、全員の財布を出してお釣りを集めはじめた。カイロの大型ショッピングセンターで買い物をして、レジで100ポンド紙幣を出すと、店の女の子が小額紙幣を探してあちこちのレジを走り回る。ナイル川クルーズの豪華客船のフロントで両替を頼むと、スタッフは客のチップが入った封筒を逆さに振るばかり……。

発展途上国を旅するときに、高額紙幣を出して釣銭が返ってこない、というのはよく経験する。彼らはそれをチップと見なして、きまって「釣銭の持ち合わせがない」と言うから、旅行者は、タクシーなどに乗るときのために、できるだけ小額紙幣を手元においておこうとする。しかしエジプトでは、こういう典型的なぼったくりだけでなく、釣り銭を払おうとするひとまで小額紙幣を持っていない。そこは「釣銭の返ってこない世界」ではなく、そもそも「小銭のない世界」なのだ。

私の観察によれば、その理由は、エジプトが「安心社会」だからだ。エジプト人は、家族や血縁など近しいひととはきわめて強い絆をもっているけれど、その反面、身内以外のエジプト人を信頼していない。当然、店員やスタッフのことも疑っているから、経営者やマネージャーはできるだけ頻繁に現金を回収しようとする。こうして、スーパーのレジにすら釣銭がないという不可思議なことが起こる。

観光客にとっては、100ポンドや200ポンドといった高額紙幣はあまり使い道がない。そこでいろんな機会を利用して、5ポンド、10ポンド、20ポンドといった“貴重な”小額紙幣に両替しようとする。この国ではあらゆるサービスに対してチップ(バクシーシ)を払わなければならず、高額紙幣を渡しても釣銭が戻ってくることは絶対にないからだ。

その結果、博物館のチケット売場など、釣銭が確実に受け取れるとわかっている場所では、誰もが高額紙幣を使おうとする。こうしてただでさえ少ない10ポンドや20ポンド紙幣が枯渇して、冒頭のような場面が日常的に起こることになるのだ。

社会学者の山岸俊男は、『安心社会から信頼社会へ』などの著作で、家族や共同体の身内しか信用しないムラ社会を「安心社会」、見知らぬひとでもとりあえずは信用してみる社会を「信頼社会」と名づけた。山岸によれば日本はまだ安心社会で、それに対してアメリカなどの移民国家は信頼社会のルールが根づいている。そしてグローバル資本主義の世界では、ビジネスチャンスはムラの外にしかないのだから、“よそもの”とも積極的につきあう信頼社会に制度的な優位性があると論じた。

だがエジプトと比べると、日本もじゅうぶんに「信頼社会」だ。日本人は(とりあえず)社員やアルバイトを信頼するが、エジプトでは「レジのお金は持ち逃げされる」ということが商売の基本になってしまっている。

他人(身内以外のひと)に対する最低限の信頼がないと、市場はうまく機能しない。観光客はエジプトでぼったくられるかもしれないが、じつはそれ以上にエジプト人同士でぼったくり合うことになるからだ。

私が目にした例では、3日間しか案内しないツアーガイドが4日目の分も含めてチップを集めてしまい、新しいガイドがまったくチップを受け取れなかった、ということがあった。ツアー客(サウジアラビアから来た中国人の大学生グループ)に聞くと、「ガイドへのチップは1日あたり50ポンド」といわれ、4日間分を先払いさせられたのだという。エジプトのガイドはほとんどがフリーランスだが、同じツアー会社に雇われているのだからお互いに知らない間柄ではないだろう。これではまるで、「先にだました者勝ち」の世界だ。

でもこれを読んで、「エジプトってなんてヒドいところなんだ」とは思わないでほしい。冬のこの時期は最高の観光シーズンで、抜けるような青空を背景に悠久の時を刻んだ石造建築がくっきりと浮かび上がる。エジプトのひとたちはみんな一生懸命生きていて、基本的にはものすごく親切だ。豊かな国の旅行者がぼったくられるのはどこだって同じだし、それに加えて「市場とは何か」まで教えてくれるのだから、観光と同時に経済の勉強にもなる(これは皮肉ではありません)。

イスラム教徒とコプト教徒の宗教対立やチュニジアの政変の余波で、エジプトの観光業はいま危機に瀕している。旅行者が来なくなれば、私の出会った愛すべきひとたちは収入の道を閉ざされてしまうだろう。

たくさんの旅行者がこの国の魅力を体験し、そしていつの日か、ちゃんとお釣りをもらえるようになったら素晴らしいのに。

カルナック神殿の柱と青空


最後に、旅のTIPSを。これからエジプトに行かれる方は、米ドルの1ドル札と5ドル札があると便利です。ちょっとしたチップは1ドル札で済むし、感謝の意を伝えたいなら5ドル札でとても喜ばれます(米ドルのコインは受け取ってもらえません)。