モーニングスター社インタビュー(2)震災で露呈、日本人のリスク「極大化」ポートフォリオ

<人的資本の喪失を懸念、会社依存に警鐘>

――震災が日本の経済・雇用などに与える影響が懸念されているが、どう考えるか。

「震災の経済への影響はこれから出てくるだろう。懸念すべきは、膨大な数の人達が家や車などの物的資産だけではなく、労働市場から利益を得るための『人的資本』をすべて失ってしまったことだ。例えばサラリーマンは、安定しているように見えても、会社や工場が津波で流されてしまえばこれまでの職業人生はゼロにリセットされてしまう。日本のような労働市場に流動性がない社会では、中高年は転職の可能性が閉ざされている。サラリーマンは、株式投資で1つの銘柄に全財産を投じるのと同じく、人的資本のリスクを極大化している」

「経済的な側面から見れば、人生設計とは、自分が持っている『人的資本』と『金融資本』のポートフォリオをいかに管理するかという問題としてとらえられる。一般に個人で500万円の貯金があればかなりの額だと思うが、それに比べてサラリーマンの生涯年収の合計は3億円と言われている。それを人的資本と考えれば、金融資本よりも圧倒的に大きい。500万円の貯金をどうするかを真剣に考えるよりも、人的資本をどのように守り、増やすかを考えるべきだ」

「戦後の日本社会において、人生設計の最適ポートフォリオは、大きな会社に就職し、住宅ローンを借りてマイホームを購入し、定年まで勤め上げたあとは退職金と年金で優雅に生活することだとされてきた。しかし、今やこれはリスクを『極大化』したポートフォリオになってしまった。90年代以降、『会社神話(会社はつぶれない)』と『土地神話(地価は上がり続ける)』が崩壊し、『年金神話(国は破たんしない)』が揺らいでくると、これまで隠されていたリスクがあらわになってきた。だがそれに代わる人生設計が見つからないから、人々はいまだにこの危険なポートフォリオにしがみついている」

「原発事故を含めた東日本大震災の被災者は岩手、宮城、福島3県を中心に20万-30万人と言われている。日本の人口は1億2000万人だが、本当に恐ろしいのはこの1億2000万人の大半がリスクを極大化した生活を送っていることだ」

<マイホームの保有リスクが顕在化>

――個人がマイホームを持つことのリスクについてはどう考えるか。 「住宅ローンでマイホームを買うのは、経済的に見れば、レバレッジをかけて不動産に投資することだ。不動産投資でもREIT(不動産投資信託)は投資対象が分散されているが、マイホームは卵を1つのかごに盛っているようなものだから、信用取引で個別株を買っているのと同じで極めてハイリスクな投資法だ」

「今回の震災では、マイホームのリスクが如実に現われた。家が津波で流されたり、液状化で土台が崩れたり、放射能に汚染されて住めなくなれば不動産の価値はゼロになるから、住宅ローンで投資にレバレッジをかけていると債務超過に陥ってしまう。もちろんこれは、マイホームを買った人を批判しているわけではない。だが、経済的に見れば、現在起きている事態は投資リスクの顕在化として理解することが可能だ」

「ここでも問題は、リスク耐性の低い個人が不動産投資のリスクを最大化していることにある。被災地の不動産をREITなどの機関投資家が保有し、個人に賃貸していたとすれば、震災の損害は多数の株主(REITの保有者)に分散されることになる。このように考えれば、個人にとっては持家より賃貸の方が経済合理的だが、マイホームの夢を諦めるのはなかなか難しいだろう」

インタビュー/構成:坂本浩明

モーニングスター社(2011/04/20配信)
禁無断転載

モーニングスター社インタビュー(1)震災で人生設計の「安全神話」崩壊

4月13日にインタビューを受け、20日に配信されたモーニングスター社の記事を、同社の許可を得て、今日から3回に分けて掲載します。

*                   *                   *                   *                   *                   *                   *                   *

東日本大震災や東京電力 の福島第一原子力発電所の放射能漏れ事故は、地震対策や原発の安全性についての日本人の考え方を大きく揺るがした。また、震災の日本経済への影響が懸念され、雇用に対する不安が一段と高まっている。「地震大国」と呼ばれる日本で生きるうえで、個人が経済的側面において考えるべきリスクとは何なのか。モーニングスターはこのほど、作家の橘玲氏にインタビューした。橘氏は、ベストセラーになった『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』や『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』など資産運用や人生設計についての多数の著書で知られ、個人投資家の人気も高い。震災や福島第一原発の事故を受けて何を考えたか、震災が日本人の人生設計にどのような影響をもたらすのかなどを聞いた。(聞き手・坂本浩明)

<選択肢のない人生、極めてハイリスク>

――震災後に本の執筆を中断し、雑誌原稿の連載を延期したという。まず、震災を受けて何を率直に感じ、考えたのかを聞きたい。

「私はこれまで、自由とは選択肢の数のことだと繰り返し書いてきた。選択肢を持っていないと、予期せぬ不幸に見舞われたとき、人はすべての希望を奪われてしまう。自由とは生き延びるための戦略であり、立ち直れないほどの痛手を被るのは、他に生きる術(すべ)を持たないからだ、というように」

「私は理屈ではこのことを知っていたが、しかし、今回のような想像を絶する事態が目の前に立ち現われるなどとは思ってもいなかった。もちろん被災者のなかにも、他の地域に移住して生活を再建し始めた人はいただろう。だが、震災後の圧倒的な現実とともに明らかになったのは、日本人のほとんどが選択肢など持っていないということだった。多くの人は避難所に身を寄せるしかなかった」

「日本の社会も日本人の人生設計も、大震災や原発事故は起こるはずがないという前提のもとに成立していた。しかし、いったん『安全神話』が崩壊してしまうと、想定外の事態を前に選択肢のない人達はどこにも行くところがなくなり、途方に暮れるしかなかった」

<本質的課題は社会全体の「リスク耐性」をいかに上げるか>

――震災後には東京電力 <9501> の福島第一原発の事故で首都圏でも放射能汚染に対する懸念が広がり、日用品の買いだめが起こるなどの混乱があったが、原発事故への人々の対応についてはどのようにみていたか。

「原発事故が起こったあとに分かったのは、人々の『リスク耐性』、つまりどこまでリスクに耐えられるかの水準が個人によってかなり違うということだ。原発施設で水素爆発が起きたときや、水道水で通常よりも高濃度の放射能が検出されたときは、東京でもパニックに近い状況が起きた。しかし、皆がそうなったわけではなく、高齢者や幼い子供を持つ親のようなリスク耐性の低い人から買い占めや避難の動きが始まった。いざとなれば歩いてでも逃げられるリスク耐性の高い人たちが、その行動を批判しても意味がない。いかに社会全体のリスク耐性を上げていくか。それが今回の危機を経て取り組むべき本質的な課題なのではないか」

「一方、被災地での生活について世界中が驚いているのは、避難所の人々があのような混乱のなかでも自分の生活を律し、秩序を守り、共同体を運営していることだ。欧米では秩序が宗教的な価値観に基づいて形成されるのに対して、無宗教に近い日本ではいわゆる『世間』が秩序形成に重要な役割を果たしてきた。世間とは、一般に『世間の目を気にする』などネガティブな意味で使われることが多い。しかし、今回の震災で『世間』の持つポジティブな面に光が当たった。秩序や安全を含め、日本社会の美質のほとんどは『世間』から生み出されるのだ」

モーニングスター社(2011/04/20配信)
禁無断転載

Back to the 80’s いまでもときどき思い出すこと(5)

24歳のときに、友だちと3人でママゴトみたいな会社をつくった。同じ頃に彼女に子どもができて、ママゴトみたいな結婚をした。

社長は3つ年上で(その頃はオジサンだと思ってたけどまだ27歳だった!)、ぼくたちに給料は毎月10万円だと宣言した(もちろん社会保険も家族手当もない)。会社は御茶ノ水のマンションの一室で、ぼくは1ヶ月のうち平均28日間をそこで過ごしていた。もうちょっとわかりやすくいうと、年中無休で家に帰れるのは月に2日か3日だった。

なぜそんなことになったかというと、ぼくたちの会社は出版社の下請けで、ツッパリ(ヤンキーともいう)の女の子向けの雑誌をつくっていたからだ。そのいきさつもいろいろ面白いのだけど、本題ではないので省略する。

その当時は暴走族と呼ばれる若者たちがいて、車やバイクを改造し、旗や幟を立てて深夜の公道を爆走していた。そのなかにはレディースという特攻服を着た女の子たちのグループもあって、ぼくたちの雑誌にときどき登場してくれていた。

あるとき、彼女たちが暴走族の集会に誘ってくれた。ぼくはそれまでバイクにすら乗ったことがなかったけれど、面白そうだったので、カメラマンといっしょに参加することにした。

深夜0時に蒲田の駐車場に行くと、100台ちかい車やバイクが集まっていて、頭蓋骨を震わす排気音を轟かせていた。ぼくたちの世話係はリーゼントをばしっときめた若者で、「しっかり運転しますから、いい写真を撮ってください」と励ましてくれた。高校を中退して、いまはちかくの鉄工所で働いているのだという。

暴走族の巨大な集団は、信号無視を繰り返しながら第二京浜を品川方面に向かった。ドライバーは見事なハンドル捌きで、上半身を乗り出してポーズを決める(これを“箱乗り”といった)レディースたちの後ろにぴったりと車をつけた。

社会のルールを踏みにじり良識に反抗するのは、いつだってぞくぞくするものだ。ぼくはただ後部座席で座っていただけだけど、それでも世界をひとり占めしたような高揚感があった。助手席から身を乗り出して写真を撮っていたカメラマンも、フィルム交換のとき、子どものような笑顔を浮かべて「楽しいですねえ」といった。

ドライバーの若者が、バックミラーを見て「こりゃマズいや」とつぶやいた。振り返ると、すごい数のパトカーが、サイレンを鳴らしながらぼくたちを追いかけていた。

集団は散り散りになって、ぼくたちのグループはパトカーに囲まれていた。ぼくとカメラマンは車から降りると、暴走族に職務質問する警察官の写真を撮った。当然ひと悶着があって、警察署に連れていかれそうになった。防犯課の刑事に連絡先を教えてようやく解放された頃には、もう夜は白みはじめていた。

そのまま会社に戻ると、スーツに着替えて銀座に向かった。そこには大きな広告会社があって、会議室には雑誌の編集担当やクライアント担当者、その上司など4人くらいが待っていた。あまりに給料が安いので、広告会社のPR雑誌でアルバイト原稿を書いていたのだ。

簡単な打合せが終わると、ぼくたちは黒塗りのハイヤーに分乗して南青山のホンダビルに向かった。

受付には広報担当者とその上司が待っていて、名刺交換のあと、エレベータで役員フロアに案内された。ぼくの仕事は、廊下の奥のひときわ広い部屋にいるひとにインタビューすることだった。

血色がよくて腰の低いそのおじさんは、本田宗一郎の盟友として“世界のホンダ”を育てた立志伝中の経営者、藤沢武夫だったのだけど、当時のぼくはそんなことはぜんぜん知らなかった。ただ、部屋のなかで待機しているひとたちがやたらと緊張していたのが不思議だった。

インタビューが終わると、ふたまわりも年のちがう広報責任者が、「原稿をよろしくお願いします」とぼくに深々とお辞儀をした。ホンダビルの1階はショールームになっていて、そこにシビックやアコードの新車が展示されていた。その華やかな空間を抜けると、正面玄関の車寄せにぼくを送り届けるためのハイヤーが待っていた。

外に出ると、強烈な日差しが寝不足の頭を直撃した。そのときのめまいと、排気ガスが混じった夏の匂いをいまでもなぜか覚えている。

インタビューの原稿は2時間ほどで書き上げて、速達で送った。それだけの仕事なのに、広告会社からは、ぼくの月収の3倍ちかい金額が振り込まれてきた。