決断できない世界 週刊プレイボーイ連載(22)

日本人は決断できない、とよく言われます。米国務省の元日本部長が書いた『決断できない日本』という本もよく売れているようです。

この本によれば、福島原発事故の直後、米国が無人ヘリなどの支援リストを送ったところ、日本の官僚は「放射能で汚染された場合の補償はどうなるのか」という問合せを返してきたといいます。85年の御巣鷹山への日航機墜落事故でも、米軍は即座に、夜間行動可能なヘリの出動を申し出ましたが、日本政府はこれを断わりました。翌日、奇跡的に救出された少女は、「暗くなる前にはたくさんのひとの声を聞いた」と証言しています。

全員の合意がなければなにも決められない日本人の特徴は、世界でもひろく知られています。これはもちろん事実ですが、しかしだからといって日本人が特殊だということにはなりません。そもそも決断というのは、原理的に不可能なものかもしれないのです。

決断というのは、利害が対立する局面において、一方の主張を強制的に排除することです。当然、否定された側は恨みを抱き、はげしく反撃します。決断した人間はそれに耐えなくてはなりません。これが、「決断には責任がともなう」ということです。

ここで、典型的な農耕社会を考えてみましょう。私の土地の隣にはあなたの土地があり、この物理的な位置関係は(戦争や内乱がないかぎり)未来永劫変わりません。あなたは生まれたときから私の隣人で、二人が死んだ後も、私の子孫とあなたの子孫は隣人同士です。

農村では、灌漑や稲刈り、祭りなど、村人が共同で行なうことがたくさんあります。そんなとき、一部のひとだけが損失を被るような「決断」をすると、それ以降、彼らはいっさいの協力を拒むでしょう。これでは、村が壊れてしまいます。

このことから、土地にしばりつけられた社会では、「全員一致」以外の意思決定は不可能だということがわかります。もちろんときには、誰かに泣いてもらわなければならないこともあるでしょうが、そんなときは、村長(長老)が、この借りは必ず返すと約束することで納得させたのです。

近代以前は、ユーラシア大陸(旧世界)のほとんどが農耕社会でした。中世のヨーロッパにおいても、ものごとは全員一致で決められ、それが無理な場合は、多数決ではなく戦争で決着させたのです。

それでは、多数決による決断はどのようなときに可能になるのでしょうか。

もっとも重要なのは、意に沿わない決定を下された少数派が自由に退出できることです。農耕社会では土地を失えば死ぬしかありませんから、そもそもこの選択肢が存在しません。

古代ギリシアは、地中海沿岸の地形が複雑で、共同体(ポリス)は山や海で分断され、ひとびとは交易で暮らしを立てていました。ポリスを移動することも比較的自由で、文化や習慣、言語が異なるひとたちとの交流も当たり前でした。弁論によって相手を説得し、最後は多数決で決断するきわめて特殊な文化は、このような環境から生まれたのです。

これがけっして普遍的なものでないことは、現代のギリシア人がデモに明け暮れ、政府がなにひとつ決断できないことを見ても明らかでしょう。ユーロ危機のEUも、加盟国すべての合意がなければなにも決められません。

日本だけでなく、「決断できない世界」がさらに大きな問題となっているのです。

『週刊プレイボーイ』2011年10月10日発売号
禁・無断転載

円高に慌てるな 資産防衛3つの鉄則 (月刊『文藝春秋』10月号)

月刊『文藝春秋』10月号(9月10日発売)に掲載された「円高に慌てるな 資産防衛3つの鉄則」を編集部の許可を得てアップします

*前半部分は、「円高と株安についての個人的感想」と同じです。既読の方は飛ばしてお読みください。

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財政赤字が膨張をつづけ、日本国債が格下げされても、円は戦後最高値を更新している。なぜ財政が破綻しそうなのに円だけが高くなるのか? この疑問にこたえるには、そもそも今は円高ではない、ということから説明しなければならない。

円高なのに円高ではない? これはいったいどういうことだろう。

そこでまず、下図を見ていただきたい。これは日本銀行の「主要時系列統計データ表(月次)」から作成した、1980年から現在(2011年7月)までの、名目実効為替レートと実質実効為替レートのグラフだ(2005年を100として指数化。数値が大きくなるほど円の実質価値が高い)。

面倒な話は後回しにして、まずはグラフの青線を見ていただきたい。1980年に35.34だった為替レートは122.05まで約3.5倍になっている。これが名目実効為替レートで、ドル、ユーロ、ポンドなどさまざまな通貨と円との関係を合成したものだ。

通貨というのは相対的なものだから、ドルに対して円が高くなっても、ユーロに対しては安くなるということがしばしば起きる。だが実効レートなら、世界の通貨のなかで円が高くなっていく様子がはっきりとわかる。

ところでこのグラフには、もうひとつ赤線で描かれた数値がある。これが実質実効為替レートで、現在は101.47。円が最初にこれとほぼ同じレートになったのは、25年前の1986年2月(102.63)だ。こちらの実質レートで見れば、円は80年代からぜんぜん高くなっていないことになる。

これが、「円高なのに円高ではない」という不思議な話だ。

ところで、実質為替レートというのはいったいなんだろう。これは、次のように考えるとわかりやすい。

たとえば1ドル=100円として、ハンバーガー1個が日本で100円、アメリカで1ドルだったとする。

このとき日本がデフレ(物価が安くなること)になって、ハンバーガーが90円に値下がりしたとしよう。このとき為替レートが1ドル=100円のままだったら、ドル換算したハンバーガーの値段は90セントになる(90円÷100円)。

ところが同じハンバーガーがアメリカでの1個1ドルで売られているのだから、日本(90セント)からアメリカ(1ドル)に持っていくだけで、1個あたり10セント儲かることになる(ハンバーガーには賞味期限や輸送コストがあるが、音楽CDやゲームソフト、パソコンのプログラムなどデジタル化された商品なら、こうした取引が実際に可能になる)。

もしもあなたがこの仕組みに気づくほど賢ければ、(太平洋を越えて)西から東にモノを動かすだけで無限にお金を増やすことができる。すなわちここでは、あり得ないはずの錬金術が成立してしまうのだ。

でも残念なことに、現実にはこんなウマい話は起こらない。為替レートが1ドル=90円の円高になることで、90円のハンバーガーは1ドルになって、損も得もなくなるのだ。

このことから、「デフレになると円は高くなる」ということがわかる。

これは数学における定理と同様に、市場における絶対法則だ。そんなバカな、と思うかもしれないが、もしこの法則が正しく働いていないのなら、あなたが世界じゅうの富を一人占めしてしまうのだ。

銀行預金が一番安心?

為替レートにはもうひとつ、「低金利だと円高になる」という絶対法則もある。ウソだろ、と思うかもしれないが、この法則が働いていないとやはり錬金術になってしまう。

このことを直感的に理解するには、グローバルソブリンを例にとるとわかりやすい。

毎月分配型投資信託の草分けとして大人気を博したこのファンドは、設定時(97年12月)に1万円だった基準価額が、7月末には5090円まで値下がりしてしまった。これだけ見れば円高で大損しているようだが、その一方で、設定来の分配金の総額は6941円になっている。これを加えると、最初の1万円は14年間で1万2031円に増えたわけで、投資利回りは年率1.33パーセント。日本国債とほぼ同じだ。

グローバルソブリンというのは海外の高格付けの債券に投資するファンドだから、投資リスクとしては日本国債と変わらない。ここでもし円高にならないとすると、海外の高金利の債券を買えば確実に儲かることになる。投資の世界では、リスクが同じならリターンも同じになるはずだから、これは一種の超常現象だ。

でもやはり、こんなウマい話にはならない。市場の「見えざる手」が、損も得もないように為替レートを動かしてしまう。外貨建て債券の金利で儲けても、円高で円換算の元本は目減りして相殺される。このように為替レートが長期的には実質金利が同じになるまで調整されることを「金利平衡説」という。

前出の実質為替レートでは、インフレ率によって通貨の「実質的な」価値が変わらないように調整されていた。もちろん短期的には円安に振れることもあるけれど、デフレと低金利がつづくかぎりいずれは円高になるに決まっていたのだ。

日本はG7などで「異常な円高」への協調介入を求めているが、各国はもちろん、実質為替レートで見れば円高ではないことを知っているので相手にされないのも当たり前だ。名目為替レートを円安にするには、金利を上げるか、インフレにするかしかなく、日銀がいくら市場介入してもなんの効果もない。

実質為替レートで見れば、もっとも円が高かったのは「超円高」と騒がれた95年4月の151.11(1ドル=83.77円)。次が99年末の131.37(1ドル=102.08円)と88年11月の124.17(1ド=121.85円)だ。現在の実効レートは101.47だから、今後さらに20~30パーセント円高になってもなんの不思議もない。

このようにデフレと円高がつづくのなら、資産は円の現金で持っているのがいちばんいいに決まっている。国内では金利こそつかないものの、モノの値段が安くなるのだからお金の使い手がどんどん増えていく(実質金利がプラスになる)。海外では円の価値が高くなるのだから、買い物でも食事でもなんでも格安になる。

だったら、資産運用なんて面倒なことは考えずに、稼いだお金は銀行預金にしておこう――ほんとうにこれでいいのだろうか。

 デフレでも値下がりしないもの

実質為替レートが同じなら損も得もないはずだから、理屈のうえでは、名目為替レートがどれほど円高になっても私たちの生活にはなんの影響もない。でも世の中のたいていのことは、理屈どおりにはいかないものだ。

これまで述べてきたように、市場にはどこを探しても錬金術はないはずだ。それでも「デフレ・円高世界」で円の現金を持っているひとは、国内でも海外でもものすごく得をする。これも一種の錬金術だとすると、どこかでなにかがおかしいはずだ。

経済学は、効率的な市場では、デフレならすべての価格が一様に下落すると考える。ところが現実には、どんなにデフレになっても下がらないものがある。

ひとつは金利で、預金者から保管料をもらってお金を預かるマイナス金利はありえない。預金金利がゼロパーセントだとしても、インフレ率がマイナス2パーセントなら、実質金利は2パーセントだ。銀行は、デフレになればなるほど預金者に高い金利を払うことになって損をしてしまう。

経営破綻を避けるには、もっと実質金利の高い商品を探してきて、そこに投資するほかはない。じつはこんな都合のいい投資先が、ひとつだけあった。それが、日本国債だ。

国債の名目利回りが2パーセントとすると、銀行は預金者からゼロパーセントでお金を預かっているのだから、まるまる2パーセントが利益になる。こんなおいしい取引はほかにはないから、銀行はひたすら国債を買いまくった。

こうして、日本国の一般債務の総額はとうとう1000兆円を超えてしまった。あなたが銀行に預けたお金は、ほとんどが日本国債になってしまったのだ。

デフレで値段が下がらないのは、賃金も同じだ。

公務員はもちろん、大企業でもふつうは賃金のベースダウンはない。ボーナスをいくら削っても限界があるから、デフレ経済では実質賃金は次第に高くなっていく。それに対して商品の値段は安くなり、売上が減っていくのだから、利益は減少して会社の経営は悪化し、株価も下落する。

そうなると、会社が倒産したり、従業員がリストラされたりする。これは要するに、すべてのひとの賃金を一律に引き下げられないから、一部のひとの賃金をゼロにして、市場全体として帳尻を合わせようということだ。

年金もデフレで受給額が減額されないが、この場合、損をするのは日本国になる。税収が減っても支給額が変わらなければ、足りない分を赤字国債で補うほかはない(実際には少子高齢化の影響で赤字はさらに増えていく)。

このように、理屈のうえでは損も得もないとしても、実際にデフレになると、景気が悪くなって地価や株価が下落し、失業率が上がり、非正規雇用の割合が増え、中高年が自殺する。おまけに国の赤字が増えて財政が悪化し、それに円高が加わってますます世の中が暗くなる。「デフレが諸悪の根源」といわれるのは、じゅうぶん根拠があるのだ。

それでは、このままデフレ=不景気がつづくとどうなるのだろうか。この世に錬金術はないとすれば、これもまた簡単にこたえが出る。

国債の発行というのは、国民の金融資産(もしくは国の課税権)を担保に借金をして、それを国民に配ることだ。もしこれが無限につづけられるのなら、国債を刷るだけでみんなが働かずに暮らしていけるユートピアが実現する。もちろんこんなウマい話があるはずはないから、国の借金はどこかで行き詰まる。

とはいえ、どんな経済理論もその時期を正確に予測することはできない。日本はまだまだ経済大国だから、借金の余力はかなり残っているかもしれない。増税をすることで、財政赤字が増えるペースを落とせるかもしれない。

でもこのままでは、いずれ限界を超える日がやってくる。それだけは間違いない。

「家族の絆」を取り戻すもっとも簡単な方法 週刊プレイボーイ連載(21)

「日本では子どもが親の面倒を見るんだろ。君たちがうらやましいよ」

旅行先のモスクワで知り合った50代半ばのロシア人から、そういわれました。ロシアでは、子どもは親の世話をしないのがふつうで、高齢者も自分のちからで生きていかなくてはならないのだそうです。

「考えてもみろよ。ソ連時代は住宅も医療費もすべてタダで、老後は年金で生きていくのが当たり前だった。親の面倒を国が見てくれるんなら、子どもは自分のことだけを考えればいい。だから社会体制が変わっても、この国ではだれも親の世話をしないんだよ」

帝政時代のロシアは国民の大半が農奴として土地にしばりつけられていて、家族で身を寄せ合い、助け合いながら生きていくほかありませんでした。二度の革命を経てソヴィエト連邦が成立したのは1922年、共産党支配の崩壊が1991年ですから、わずか70年のあいだにロシアでは親子の関係が劇的に変わったことになります。

とはいえ彼は、子どもを恨んでいるわけではありません。そればかりか、一人息子の自慢になると話が止まりません。

彼の息子は数学の学位をとって高校の教師になったあと、大学に再入学してコンピュータの学位も取得し、いまはドイツ系企業の子会社に職を得て、夫婦共働きでモスクワ市内にアパートを買おうとしているといいます。

「収入が減るのがイヤだといって、まだ子どもを産もうとしないんだよ。俺は早く孫の顔を見たいのに」

そうぼやくところは、親馬鹿そのものです。

孔子はひとの道として、主君への忠誠などとともに親への孝行を説きました。孔子はなぜ、親が子どもを愛することの大切さを語らなかったのでしょうか。

それはおそらく、親の愛情が遺伝子のプログラム(本能)であるのに対し、親孝行が文化だからです。それは、私たちの祖先が家族を基本単位として集団生活を送るなかで、人工的につくられた価値観です。だからこそ、社会の混乱で家族がばらばらになってしまえば親孝行の美風も廃れてしまう――孔子はそれを憂えたのでしょう。

経済的な格差をなくし、障がい者や高齢者や能力の劣った者も平等に生きていける(とされた)社会主義国家は、親孝行がこわれやすい人工物であることを証明する壮大な社会実験でした。そして孔子の洞察どおり、ホモ・サピエンスの登場から50万年以上かけて育まれてきた親孝行の文化は、一瞬にして消えてしまったのです。

日本でも、「家族の価値が廃れた」と嘆くひとがあとを絶ちません。しかしロシアの経験を見るならば、家族の崩壊は福祉国家の運命だというほかはありません。年金や健康保険制度を充実させればさせるほど、子どもは重荷が軽減されたと考えて、家族の絆は弱くなっていきます。国家が親の世話をすべて代行するならば、「親孝行は古代の奇妙な風習」ということになるでしょう。

このことから逆に、家族の絆を取り戻すきわめて効果的な方法がわかります。国民年金も国民健康保険もすべて廃止してしまえば、国民はふたたび家族という安全保障装置に頼らざるを得なくなります。もっとも、どれほど憂国の士であってもこの提案に賛成はしないでしょうが。

 『週刊プレイボーイ』2011年10月3日発売号
禁・無断転載