アカデミズムという虚構 旧石器遺跡捏造事件 (『(日本人)』未公開原稿2)

新刊『(日本人)』の未公開原稿です。

原発事故責任を考えるうえで、日本の“アカデミズム”とはどのようなところなのか(日本で“学者”“専門家”と呼ばれるのはどのようなひとたちなのか)を示す格好のエピソードだと思いましたが、最終的に分量の関係でカットしました。その後の“ゴッドハンド”については、ほとんど知られていないと思います。

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2009年12月某日の夕刻、元文化庁主任文化財調査官・岡村道雄は東北のある駅に降り立った。そこで、10年ぶりにある男と再会するためである。

男は臙脂色のジャンパー姿で、土産を入れた紙袋を持って、駅の待合所に座っていた。すこし太って、白くなった髪を短く刈り、好々爺のような風貌だった。

男は岡村と対面すると、開口一番、「申し訳なかった」とテーブルに手をついて頭を下げた。

男の名前は藤村新一。かつてひとは、彼を「ゴッドハンド」と呼んだ。

人類の祖先たち

およそ700万年前、アフリカの熱帯森林地帯で、チンパンジーとヒトは別の進化の道を辿るようになった。直立二足歩行をしていた可能性のある最古の人類(猿人)は、アフリカ・チャドで発見されたサヘラントロプス・チャデンシスで、脳容量360~370cc、身長は105~120センチだった。

約400万年前、猿人(アウストラロピテクス)たちはまだ森林とサバンナを往復しながら暮らしていた。からだ全体が小さく、下肢に比べて腕が長いのは、樹上生活の適応と考えられている。

約250万年前、石器をつくった可能性のある最古の人類であるアウストラロピテクス・ガルヒがエチオピアで発見される。

現生人類と同じホモ族が登場するのは約200万年前で、その体型は現代人とほとんど変わらず、サバンナを長距離歩いて狩猟や採集を行なっていた。彼らのつくる石器はチョッパーと呼ばれ、左手に素材の石を持ち、右手でハンマーストーン(敲石)を叩きつけて鋭角をつくる素朴なものだった。

約180万年前のホモ・エルガスターやホモ・エレクトスになると、素材の石から大きな剥片を取り出し、それを加工するクリーパーという石器が現われる。彼らはその石器を持って、アフリカを超えて遠くアジアやヨーロッパの旧大陸全体へと移動していった。

60万年前頃になると、100回以上の打撃によって全面加工したハンドアックス(石斧)が登場する。彼らのつくる石器は多様性を増し、ひとつの素材から長さ数センチの三角形や長方形、円形などの道具をつくるまでになった。

百数十万年前とされるジャワ原人(ピテカントロプス)や、約60万年前の北京原人はホモ・エレクトスの亜種で、現生人類とは異なる系統と考えられている。

約20万年前、アフリカのどこかで私たちの祖先となるホモ・サピエンスが誕生した。10万年前になると、アフリカの洞窟遺跡で精巧な石器や骨角器が発見されるようになる。彼らのうちアフリカを出てヨーロッパに向かったのがクロマニヨン人で、先住者のネアンデルタール人(原人)が絶滅した後、唯一のヒトとなった。

彼らはかみそりのような鋭い刃を持つ石刃や、小さな石刃を木や骨の軸に埋め込んだ組み合わせ道具などを持ち、骨や牙で人間や動物の像をつくり、洞窟壁画を描き、象牙や貝殻製のビーズなどを副葬品とする埋葬を行なった。

ホモ・サピエンスは2万5000年前までには中央シベリア、1万4000年前までにはシベリア北東端にたどり付き、当時は陸続きだったベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へと移動していった。

日本の考古学は、ホモ・エレクトス(原人)の時代を「前期旧石器時代」、ホモ・サピエンス(新人)の初期を「後期旧石器時代」と呼んでいる。日本を揺るがした前代未聞の「旧石器遺跡捏造事件」は、このふたつの旧石器時代をめぐる学閥争いが温床となった。

 遺恨の始まり

太古の日本は火山活動が激しく、生き物はほとんど棲息できなかったと考えられていた。日本にはじめてヒトが移住してきたのは約1万5000年前の縄文時代(新石器時代)で、日本には旧石器時代はないというのが長らく考古学会の定説とされていた。

だが1946年、民間の考古学者・相沢忠洋が群馬県で、約2万5000年前と見られる関東ローム層の露頭から石器を発見した。この「岩宿遺跡」は当初、学会から黙殺されていたが、49年、明治大学大学院生だった芹沢長介が相沢から槍先型石器を見せられ、同大助教授の杉原壮介がそれを旧石器と確認したことで、「日本考古学の最大の発見」と称されることになる。

だが杉原は、行商をしながら独学で考古学を研究していた相沢を発掘報告書でたんなる「調査の斡旋者」と扱い、「旧石器時代発見」の功績を独占した。それに反発した芹沢は、日本の考古学をリードしていた明治大学を去って東北大学に移ることになる。

このときから、考古学会における明治大学と東北大学の長い遺恨が始まった。

東北大学を拠点とした芹沢一派にとって、杉原に簒奪された後期旧石器時代の栄冠を取り戻すには、それを上回る超弩級の大発見である原人の痕跡を見つけるしかなかった。縄文時代とされていた大分県の遺跡を芹沢が再調査し、12万年から10万年前の原人の石器を発掘したと発表したものの、杉原がそれを偽石器(石が自然に割れて人工物のように見えるもの)と否定したこともあって、「日本に前期旧石器時代は存在するか」という前期旧石器存否論争は、杉原・芹沢というかつての師弟の私闘の様相を呈するまでになった。

1975年、東北大学文学部助手で芹沢の愛弟子だった岡村道雄は、宮城県内の考古学者やアマチュア研究家を集めた「石器文化談話会」を設立する。岡村の目的は、「談話会」を中心に東北地方の遺跡を調査・発掘し、前期旧石器時代の存在を証明する遺跡を発見して、師・芹沢の汚名をそそぐことだった。

このとき、「談話会」には一人の若い考古学愛好家が参加していた。それが藤村新一だ。

 「前期旧石器」の発見

宮城県仙台市の北、加美郡中新田町(現・加美町)に生まれた藤村新一は、後に毎日新聞のインタビューを受けて、「小学校二年の時、自宅の裏の畑で見つけた土器が約5000年前のものだと、教師に教わった。それから、太古へのロマンを夢見るようになった」と語っている。あるいは雑誌(月刊『現代』2000年11月号)に、「偶然にも、隣町の史跡・長根貝塚で中学生の時に縄文土器を拾い、喜びのあまりに学校の先生に見せた」(「私には50万年前の地形が見える」)とも書いている。いずれの記憶が正しいかはわからないが、子どもの頃から考古学に魅せられていたことはたしかなようだ。

仙台育英学園高校を卒業して地元の電気機器メーカーに就職した藤村は、22歳頃から、休日を返上して古川市や隣の岩出山町(ともに現・大崎市)などを自転車に乗って踏査し、石器を探すようになった。近辺を流れる江合川周辺には縄文時代の火山灰層が露出している崖面があり、そこから石器を抜き取ったりして、1年間で数百点の縄文石器を採集したという。

七四年、藤村は岩出山町座散乱木(ざざらぎ)の農道ちかくで縄文時代の遺物を採取し、これを地元の研究者のもとに持ち込んだ。その後の調査でこれが旧石器時代の重要な遺跡と判断されたため、東北大学の考古学を率いる芹沢は、当時27歳だった岡村を発掘の責任者として派遣する。こうして「談話会」が設立され、1976年から座散乱木遺跡の発掘が開始された。

座散乱木遺跡の第一次と第二次の発掘調査では、約1万年前に降下した火山灰層の最下層から縄文時代初期の石器や土器片が掘り出され、さらにその下層から旧石器時代の石器16点が見つかった。この成果に意を強くした岡村たちは座散乱木の発掘をさらに進め、ついに1980年4月20日、3万年以上前の古い地層からハンドアックスなど10点の石器を発見する。

この瞬間を、岡村は自著でこう回想する。

「私はこの重大な発見に立ち会い、背中に戦慄が走り、やがてこの光景を呆然と眺めて気が遠くなっていくようだった」

第一発見者は、藤村だった。

81年9月に再開された座散乱木遺跡第三次調査でも計46点の旧石器が発見され、全国から集まった約300人の研究者たちがその成果を祝福した。

84年、座散乱木よりもさらに古い地層からの石器発掘を目指して始まった馬場壇A遺跡(宮城県古川市)で、約12万年前の火山噴火で降り積もった軽石層のさらに下層から馬蹄形型に配置された二十数点の石器が発見された。岡村らがこれを顕微鏡で観察したところ、角や骨あるいは肉や皮を加工したときにつく磨耗や光沢が認められた。また発見場所を熱残留磁気測定したところ、約1割の石器に加熱を受けた跡があることがわかった。さらには、石器が集中する周辺の土からは、ナウマンゾウやオツノシカのものと思われる脂肪酸が検出された。

こうした調査結果をもとに岡村は、15万年から20万年前、原人たちがここで焚き火を囲み、大型動物を解体・調理していたと推定した。

岡村は発掘調査報告書で、「ここに前期旧石器論争は結着(ママ)した」と高らかに宣言した。

これら一連の石器も、藤村が掘り出すか、藤村が発掘現場に現われたときに発見されたものだった。

「生活保護」をめぐるやっかいな問題 週刊プレイボーイ連載(54)

高収入を得ているお笑い芸人の母親が、生活保護を受給していたことが大きな関心を呼びました。本人だけでなく、事件を実名で取り上げた国会議員も批判を浴びています。

生活保護は貧しいひとをみんなで支える制度ですが、不正受給が常に問題になります。

生活保護費の原資は税金ですが、多くの納税者はけっして楽な生活を送っているわけではありません。病気や障害で収入を得る方途がないなら別ですが、働きたくないひとを税金で食べさせるのに同意するひとはいないでしょう。生活保護の不正受給は深刻なモラルハザードで、放置しておくと制度そのものへの信頼が失われてしまいます。

その一方で、生活保護には別の問題もあります。

2007年7月、北九州市の住宅街で52歳の男性の死体が発見されました。男性はタクシー会社を病気で辞めた後、生活保護を3カ月半ほどで打ち切られ、餓死したと見られています。日記に「おにぎりが食べたい」と書かれていたことから、生活保護のあり方をめぐって大きな議論を巻き起こしました。

当時、北九州市は生活保護費の膨張に頭を悩ませており、受給者への就労指導を強化していました。この「水際作戦」が孤独死の悲劇を招いたのだと、マスコミは批判しました。

生活保護が必要なひとに届かないことを、「漏給」といいます。生活保護制度には、「不正受給」と「漏給」の二つの欠陥があるのです。

生活保護の受給者を指導するのは、福祉事務所のケースワーカーです。彼らは一人あたり平均して80世帯を担当しており、申請者の資産調査や受給者の就労支援を行なっています。厚労相は扶養義務の厳格化を指示しましたが、生活保護の受給者は200万人を超え、親族の資産調査などとても手が回らないのが実情だといいます。

誰もが「不正受給は許されない」というでしょうが、次のようなケースはどう考えればいいのでしょう。

幼い子どもを抱えた母親が、毎日パチンコで遊んでいます(よくある話です)。不正受給の疑いが濃厚ですが、保護を打ち切ると子どもが生きていけなくなってしまいます。ケースワーカーは、こうしたグレイゾーンでの判断を日々迫られているのです。

「なにかを手に入れようと思えば、なにかを手放さなければならない」ことをトレードオフといいます。「ケーキはおいしいけれど、ダイエットに失敗してしまう」という関係です。

世の中にはたくさんのトレードオフがありますが、生活保護の漏給と不正受給もそのひとつです。税金を食いものにする不届き者を水際で防ごうとすると、漏給によって餓死者が出てしまいます。かといって申請をすべて認めていたら、不正受給で保護費は莫大な金額になってしまうでしょう。

漏給と不正受給がトレードオフなら、政治の役割は、漏給を減らすのにどの程度の不正受給を覚悟するかを決めることです。しかしほとんどのひとはこうした不愉快な議論を嫌い、快適な「正義」を求めて、不正受給をバッシングし、漏給をきびしく批判します。

こうして、不毛な議論がいつまでもつづくことになるのです。

 『週刊プレイボーイ』2012年6月11日発売号
禁・無断転載

38年目の亡霊 奥崎謙三と戦争責任 (『(日本人)』未公開原稿1)

海外出張中なので、新刊『(日本人)』から、最終稿で削った部分をアップします。

奥崎謙三「ゆきゆきて進軍」のエピソードは、戦争責任と原発事故責任の対比で使おうと思ったのですが、他のエピソードと重複する感があるのでカットしました。

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『ゲゲゲの女房』で一躍、国民的なスターとなった漫画家・水木しげるは戦局の悪化した1943(昭和18)年末、南太平洋の航空拠点ラバウルのあるニューブリテン島に派遣された。21歳の水木は臨時歩兵連隊の二等兵で、上陸直後から、米軍機の爆撃と食糧不足に悩まされることになる。

水木の小隊は戦闘らしい戦闘もしないままジャングルのなかで転進を繰り返し、海軍基地のあったバイエンという海辺の村で米軍の急襲を受ける。兵舎で寝ていた兵たちはなんの抵抗もできないまま全滅したが、水木はそのときたまたま歩哨に立っており、断崖から渦を巻く海に飛び込んで難を逃れた。珊瑚で切った足は血だらけになり、マラリア蚊の大群に襲われ、命からがら中隊に戻ると、中隊長は、「なんで逃げ帰ったんだ。皆が死んだんだから、お前も死ね」といった。

マラリアの高熱で動けなくなった水木は、敵の空襲に逃げ遅れ、爆風とともに左腕を失った。米軍の哨戒する海を輸送船で渡り、野戦病院に移送され、そこで終戦を迎えることになる。

水木の描く戦記もののいちばんの魅力は、土人たちとの交友だ(「土人」は現在では差別語とされているが、水木は「土とともに生きるひと」という尊敬の意味で使っている)。捕虜となっても、柵を越えて毎日のような土人部落に遊びにいって彼らの絵を描いた。

日本に帰ると決まったとき、水木は土人たちから、「お前はこの部落の者になれ」といわれる。日本に戻って軍隊みたいに働かされるよりは、ここでのんびり一生を送った方がいいかもしれないと考えた水木は、現地除隊を軍医に相談した。驚いた軍医から、「せめて父母の顔を見てから決めてはどうか」と説得され、帰国の船に乗ることになるのだが、土人たちは水木のために別れの宴を開き、「7年たったら必ず帰ってくる」と固い約束を交わした。

故郷に戻った水木夫婦の赤貧生活と、妖怪漫画での成功は広く知られている。水木が土人たちとの約束を果たし、ニューブリテン島を再訪したのは23年後のことだった。

全滅の島

水木たちのいたニューブリテン島の東にニューギニアがある。ここはフィリピン(レイテ島)、ミャンマー(インパール)と並ぶ太平洋戦争最大の激戦地で、投入された日本兵14万人のうち12万7600名が戦死したとされる。

独立工兵第36連隊の二等兵・奥崎謙三が東ニューギニアに着いたのは、43年4月初旬だった。部隊は橋や道路をつくりながら3ヶ月かけて目的地まで移動したものの、その頃には制空権は完全に連合軍に奪われ、飛行場も用をなさなくなったため、年末には200キロ離れた中部ニューギニア北岸のウェワクまで後退することになった。

ところが戦況はさらに悪化し、翌年3月には部隊はさらに西のホーランジャ(現在のインドネシア領)に移動することになる。このときウェワクには、200名ちかい将兵が病気その他のために残留することになった。

ウェワクからホーランジャまでのジャングルの移動は、凄惨そのものだった。兵士たちの多くはマラリアと飢餓に倒れ、つぎつぎと脱落していった。そのうえ目的地のホーランジャはすでに連合軍の手に落ちており、山中に立ち往生した日本兵に米軍から銃を貸与された原住民たちが襲いかかった。この頃には部隊は四分五裂になり、一人ひとりが己の才覚で生き延びるほかない敗残兵の群れと化していた。

3ヶ月におよぶ流浪の果てに奥崎もとうとうマラリアに倒れ、そこを原住民に銃撃されて、右手小指を吹き飛ばされ右大腿部を銃弾が貫通した。それでも左手一本で濁流の川を泳ぎ渡り、さらに西に逃げ延びようとしたが、頭部に銃弾を受けるに及んで死を覚悟せざるを得なくなる。

日本につづく海までいって死のうと決心し、ようやくたどり着いた海岸は、敵兵の駐屯する原住民の部落の一角だった。夜陰にまぎれて部落に忍び込んだものの、海に入って海岸沿いに逃れることもできず、かといって山に戻れば確実な死が待っていた。

奥崎は、山中で腐り果て、蛆虫にたかられ山豚の餌になるよりは、ひとおもいに米兵に射殺された方がマシだと思い、酋長らしき男の前に飛び出し「アメリカ・ソルジャー・カム・ガン(米兵を呼んで撃ち殺してくれ)」と叫んで自分の胸を指した。だが酋長は、「アメリカ、イギリス、オランダ、インドネシア、ニッポンみんな同じ」といって、奥崎に食事をふるまったあと米兵に引き渡した。

奥崎はこうして終戦の1年前に捕えられ、オーストラリアの俘虜収容所で玉音放送を聴くことになる。ウェワクからホーランジャを目指した独立工兵第36連隊千数百人のうち、生き残ったのは奥崎を含めわずか8名だった。

ジャングルという生き地獄 

帰国した奥崎は結婚して神戸でバッテリー商を営むが、56年4月、不動産業者とのトラブルから相手を刺し殺し、傷害致死で懲役10年の刑に処せられる。大阪刑務所の独居房で奥崎は、自分はなぜあの戦場から生きて日本に戻ってきたのかを考える。そして、この世のすべての権力を打ち倒し、万人が幸福になれる「神の国」をつくることこそが、ニューギニアで神が自分を生かした理由であり、戦争責任を果たそうとしない天皇を攻撃することで自らの信念を広く世に知らしめるべきだと決意する。

出所後の69年1月2日、新春の一般参賀で、奥崎はバルコニーの天皇に向かってゴムパチンコで数個のパチンコ玉を撃ち込んだ(暴行罪で懲役1年6ヶ月の実刑)。

原一男監督のドキュメンタリー映画『ゆきゆきて神軍』では、「神軍平等兵」を名乗る奥崎が、ニューギニア・ウェワクの残留部隊で起きた銃殺事件をめぐって、終戦後38年目にかつての帝国陸軍兵士たちを訪ね歩く。

ウェワクでは終戦当時、4キロ四方のジャングルに一万数千人の日本兵が立てこもり、その周囲を連合軍が完全に包囲していた。日本軍は敗戦を知ってもただちに投降せず、独立工兵第36連隊の残留守備隊長(中尉)は9月7日(終戦の23日後)、2人の上等兵を敵前逃亡の罪で銃殺刑に処した。2人は「戦病死」として処理されたものの、この異常な出来事は兵士たちのあいだで広く知られており、ドキュメンタリーの格好の素材として、原監督が奥崎に、遺族とともに真相を究明することを提案したのだ。

奥崎の特異なキャラクターは、ベルリン国際映画祭カリガリ映画賞など多くの賞を受賞した映画を観てもらうほかないのだが、この銃殺事件の全貌を知るうえで不可欠なのが、残留日本兵が体験した絶対的な飢餓状態だ。

『日本人とユダヤ人』などの著作で知られる評論家の山本七平は、大学を繰上げ卒業した後、幹部候補生として予備士官学校に入校し、陸軍砲兵見習士官・野戦観測将校としてフィリピン・ルソン島に送られ、終戦前の3ヶ月間、ジャングルに閉じ込められた。この体験を山本は、「生き地獄」と表現する。

ジャングルには空がない、と山本はいう。大木、小木、下ばえ、つるが幾重にも重なりあい、からまりあって昼でも暗く、夜ともなれば10センチ先も見えない。

湿度は常に100パーセントで、蒸し風呂に入れられたようななか、衣服は汗と湿気でべとべとになり、ぼろぼろに腐っていく。

歩くには、なたで下ばえとつるを切り払って、ひと一人がかろうじて通れる伐開路を切り開く以外に方法がない。しかも籐【ルビ:とう】のやぶにつきたると普通のなたでは刃が立たず、身動きがとれなくなる。

地面は腐植土の厚い層で、ひとが歩けばすぐに泥濘となり、踝や膝までが泥水のなかに入ってしまう。軍靴は一ヶ月もたたないうちに糸が朽ちて分解してしまい、足全体がひどい水虫のような皮膚病になる。

全員がマラリアにかかっていて、毎日1回、あるいは3日に1回、40度ぐらいの熱が1時間ほどつづく。このとき全身から滝のような汗が流れ、体じゅうの塩分が出てしまうが、補給すべき塩がない。これが毎日つづくとどんな強健な人間でも耐えられず、やがて脳をおかされ狂い死にする。

発熱に暑気が加わるからだれもが狂ったように水ばかり飲む。これがアメーバ赤痢のような下痢を起こし、排便の最後に血痰のような粘液が出るともう助からない。ジャングルで生き延びるには、超人的な克己心で食物と水に気をつけなくてはならないのだ。