日本の親はなぜ子どもに甘いのか?

「信なくば立たず」で教育の話を久しぶりに書いて、「日本の親はなぜ子どもに甘いのか?」という興味深い記事があったことを思い出した。

日本とアメリカで世界観に対する確信の度合いをアンケート調査したもので、その概要は大垣昌夫(慶応義塾大学教授)「文化の違いと人々のふるまい 行動経済学で解明進む」(日経新聞2011年3月9日「経済教室」)に掲載されている。

それによれば、この調査は、「死後の世界がある」「神様、仏様がいる」「人間は他の生物から進化した」などの11個の世界観に関する信条に「完全に賛成」なら1、「どちらかといえば賛成」なら2、「どちらともいえない」なら3、「どちらかといえば反対」なら4、「完全に反対」なら5を選んでもらい、その後、それぞれの質問で1か5の回答なら1点、それ以外の回答は0点として、世界観に対する確信度の変数を作ったものだ。

得点は11点満点で、満点を取るのはすべての質問に「完全に賛成」あるいは「完全に反対」とこたえた確信度のきわめて高いひとだ。それに対して0点を取るのは、どの質問にも「どちらかといえば賛成」「どちらともいえない」「どちらかといえば反対」とこたえた確信度のきわめて低いひとだ。

なお、ここでの「世界観」は、「世界や人類の起源や終末などについての認識だけでなく、規範や価値や感情などを含んでいる」とされ、「宗教は世界観に大きな影響を与えるが、同じ宗教に属する人たちでも全く違う世界観を持っていることも多い」と説明されている。

アンケート調査の結果は、以下のようなものであった。

【日本人】
11点満点中、もっとも多いのは「0点」のひとたち。確信度が高くなるにつれて人数は減っていき、10点や11点を取るひとは1人もいなかった。

【アメリカ人】
11点満点中、もっとも多いのは「6点」のひとたち。なかには11点満点の確信度の高いひともいた。

日本人はなにごとに対しても確信がなく、平均的なアメリカ人は、すくなくとも質問の半分に対しては「賛成」か「反対」の確信を持っている。

このように日本人とアメリカ人では世界観に対する確信度に大きな文化差があるが、これについて大垣は、日本でもアメリカでも、この確信度と子どものしつけへの態度には有意な関係があるという。確信度が高いほどしつけの態度が厳しくなり、確信度が低いと子どもに甘くなる傾向があるのだ。

子どもに厳しくするためには、宗教であれ、道徳であれ、親が自分の世界観に強い確信を持っていなければならない。逆に確信のない親は、自分の世界観を押しつけるよりも、子どもの「自由」に任せることを好む。このように考えると、日本とアメリカの子育ての違いが明瞭になる。

大垣はまた、この確信度の違いが、アメリカ人の自信過剰(倣岸)と、日本人の謙虚さ(自信過少)につながることも指摘している。

私の個人的な経験でも、親からは「好きなように生きていきなさい。ただし、世間の迷惑にならないように」といわれてきた。今の親なら、「世間からどう見られても、自分の信じる道を進みなさい」というだろう。

日本の親には、子どもに伝えるような確固とした世界観がない。だがそのことの意味を、私たちは正しく知ることはできない。(私も含め)ほとんどのひとは、「確固とした世界観を持つ」というような体験をしたことがないから、そんな人生は想像しようがないのだ。

たとえば私は、自分の世界観は個人的なもので、子どもに強要すべきではないと思っている。これがおそらく、日本人の一般的な感覚ではないだろうか。私たちはすべてのものごとを相対的(状況依存的)に解釈し、絶対的な規範や普遍的な世界観をどこか胡散臭いものと考えているのだ。

だが私は、こうした前近代的な(あるいはポストモダン的な)心性(エートス)を、それほど悪くないと考えている。すくなくとも、親が宗教的な原理主義者で、自分の主義主張や信念を子どもに押しつけるよりはずっとマシにちがいない。

いずれにせよ、確かなのはこうした文化的・社会的基層がそうかんたんには変わらないということだ。確信のない親が確信のない子どもを再生産し、日本はこれからも「確信なき国」でありつづけるのだろう。

*ここで紹介したのは、大垣昌夫、大竹文雄(大阪大学)、チャールズ・ユウジ・ホリオカ(大阪大学)、亀坂安紀子(青山学院大学)、窪田康平(日本大学人口研究所)の共同研究。

宝くじは「愚か者に課せられた税金」 週刊プレイボーイ連載(9)

「1等前後賞合わせて3億円!!」のサマージャンボ宝くじが発売され、人気の売場にはさっそく行列ができています。宝くじの魅力は夢をかなえる一攫千金にあるのでしょうが、その一方で、「宝くじを買うひとはお金持ちにはなれない」ともいわれています。その理由は、小学生でもわかるような単純な期待値の計算ができないからです。

あらゆるギャンブルは、賭け金からショバ代(経費)が差し引かれ、残金の合計を勝者(当せん者)が総取りする仕組みになっています。競馬を開帳するには競馬場や競走馬などが必要になりますから、賭けの参加者が胴元にショバ代を支払うのは仕方のないことです。もちろん、この参加費が安ければ安いほど、勝ったときの払い戻し額が大きくなるという法則も共通です。

ある賭けに100円を投じたとき、平均してそのうちいくら払い戻されるかがギャンブルの期待値で、競馬や競輪など公営ギャンブルの期待値は75円(経費率25パーセント)です。この期待値はゲームの種類によって異なり、ラスベガスのルーレットは約95円、パチンコやスロットは約97円とされています。プロのギャンブラーにバカラ賭博が好まれるのは、ゲームが面白いからではなく、期待値が約99円ときわめて高いからです。

ところで日本の宝くじは、平均的な期待値が47円と恐ろしく低いことが特徴です。サマージャンボを3000円分買ったとすると、その瞬間に1590円が日本宝くじ協会によって差し引かれてしまいます。これほど割に合わないギャンブルはほかにはないので、「宝くじは愚か者に課せられた税金」と呼ばれるのです。

宝くじを買うひとは誰もが1等当せんを期待するでしょうが、その夢がかなうのは交通事故で死ぬ確率よりもはるかに低いのですから、購入者が合理的であれば、大金持ちになる前に交通事故死してしまうと考えて買うのをやめるはずです。それでも膨大な数の宝くじ愛好家がいるのは、自分の人生にはとてつもなく幸運なことが起きるかもしれないが、それほどの不幸はないだろうと楽天的に考えているからです。

宝くじというのは、マトモに考えれば成り立つはずのない賭け事ですが、行動経済学的にいうならば、確率を正しく計算できない不合理性と、天性のポジティブシンキングに支えられて大繁盛しているのです。

宝くじに関するもうひとつの皮肉は、当せんしても幸福になれるとはかぎらない、ということです。アメリカでは、宝くじで何億円も当てると、新聞やテレビに顔写真付きで大きく報道されます。ところがこうした“幸運な”当せん者を追跡調査すると、人生の満足度が大きく下がっているケースが多いことが知られています。

宝くじで大金を手にしたことがわかると、遠い親戚や昔の知人がおこぼれに預かろうとつぎつぎとやってきます。そうした申し出を拒絶していると、親しい友人関係までもいっしょになくしてしまい、放蕩三昧で当せん金を使い果たす頃には、自分にはなにも残っていないことに気づくのです。

それを考えれば、宝くじを買おうと考えるほど楽天的で、やっぱりやめるくらい合理的なのがちょうどいいのかもしれません。

『週刊プレイボーイ』2011年7月4日発売号
禁・無断転載

信なくば立たず

ずいぶん昔のことだけれど、保護者面談で夜の小学校を訪ねたことがある。私のところは共働きなので、その日の最後に回してもらったのだ。

担任はベテランの女性教師で、いつものように、子どもの授業態度についてあれこれ注意された。ぺこぺこと頭を下げて教室を出ると、誰もいない廊下の向こうから押し殺したようなすすり泣きが漏れてきた。その教室には煌々と明かりが灯り、窓から覗くと、十数人の母親が押し黙ったまま若い女性を取り囲んでいた。

その後、知り合いの親たちに事情を聞いてみると、そのクラスは教師が生徒を管理できず、トラブルが相次いで苦情が絶えないのだという。私が見たのは、クラスの母親たちが学級運営について教師に問い質している場面だった。いまなら“モンスターペアレント”ということになるだろうが、当時はそのような言葉もなく、親が教師を私刑(リンチ)するかのような光景に大きな衝撃を受けたことを覚えている。

とはいえ、他のクラスの親たちの反応は、“被害者”である教師ではなく、クレームをつけるクラスの母親たちにはるかに同情的だった。

いまでも同じかもしれないが、当時は新学期になって担任が交代するたびに、親たちは「当たり」「はずれ」で一喜一憂した。

母親たちにいちばん人気があるのは若い男性の教師で、ベテランであればまあまあ、最悪なのは若い女性教師だ。社会経験の乏しい女教師にまともな学級運営はできない、というのが母親たちの定説で、実際に、若い女性教師が担当する高学年のクラスはほぼ例外なく荒れることになった。

子どもの安全は親にとってきわめて重要だから、「はずれ」を引いた母親は、教師にさまざまな要望を伝えて現状を改善しようとする。この要望はやがて圧力となり、クレームとなって、母親と教師の信頼関係は完全に崩壊することになる。

元高校教師の諏訪哲ニは、「学校は演劇空間である」と繰り返し述べている。

ひとはみな平等であり、教師と生徒は“ひと”と“ひと”して対等である。だが教育という営みは、教師が生徒よりも“エラい”という階層性(差別)を前提としなければ成り立たない。ひとたび校門をくぐったら、「学校」という舞台の上で、教師は「教師」の役を、生徒は「生徒」の役を演じなければならないのだ。

ところが1970年代以降の消費大衆社会のなかで、教師と生徒の「差別」構造は解体してしまった(その象徴が「金八先生」だ)。生徒は、自分と「対等」の人間からなにかを学ぼうとは思わない。学校から教育が失われるのは当然だったのだ。

ところで、終戦直後の「民主教育」の黄金期に、生徒たちはなぜ教師を尊敬したのだろうか。それは、親や地域社会が教師を尊敬していたからだ。

ではなぜ、当時の教員は尊敬されたのか。これは彼らの人間的な魅力によるものではない。1960年代までは、大学卒の学歴を持つひとは地方にはほとんどいなかった。学校の教師は、きわめて稀少な知の権威として、地域社会の最上位に列せられたのだ。

ところが、私の子どもが小学校に通った1990年代には、(すくなくとも東京・杉並では)こうした知の権威は完全に消失していた。その理由は単純で、親の学歴が教師の学歴を上回ってしまったからである。

こうして母親たちは教師を学歴で尊敬しなくなったが、だからといって、自分が教師と「対等」であると考えていたわけでもない。そうなると、残された「尊敬」の根拠は長幼の序(年齢)と性別しかない。

私の経験では、母親たちは若い男性教師を、学歴にかかわらず熱烈に歓迎した。母親たちの厚い支持があれば、教師としての経験が浅くても子どもたちはついてくる。結果として、他のクラスの親たちが羨むような理想の学級が成立した(もうちょっと正確にいうと、若い男性教員に対する母親の感情は「尊敬」ではなく「応援」にちかいだろう)。

皮肉な言い方をするならば、この「成功」は性差別から生まれたのだ。

このことから、若い女性教師の苦境も説明できる。母親からすれば、自分よりも年下で、子どもを育てた経験もなく、一流大学を出たわけでもない女性教師を「尊敬」する理由はどこにもない。こうした態度は家庭で共有されるから、子どもたちは教師の指示に従わなくなり、それが教師の「無能」の証明とされて母親たちの信頼をさらに失っていく。

このようにして、80年代以降、親や地域社会、生徒たちの「信」を失った公教育は迷走しはじめる。その後、さまざまな「改革」が行なわれたが、制度を変えたからといって「信」が復活するわけではないのだから、「ゆとり教育」にしようが、それを廃止しようが、状況が悪化するばかりなのは当たり前だったのだ。

最近の政治の迷走を見て、この古い記憶がよみがえった。夜の教室ですすり泣いていたあの女性教師は、いまごろどうしているだろうか。