私たちは人類史上もっとも幸福な時代に生きている 週刊プレイボーイ連載(100)

 

格差社会やグローバリズム、テロや環境破壊、犯罪の増加や社会の右傾化で、私たちの暮らしはどんどん悪いほうに向かっていると多くのひとが思っています。しかし、それはほんとうでしょうか?

明治時代の日本人の平均寿命は男性も女性も40歳代で、1950年代にようやく60歳を超えました。乳幼児の死亡率が高く、結核やコレラ、ペストなどの感染症への対策が不十分だったためです。跡継ぎを得るために、戦前の日本女性は5人以上の子どもを産むのが当たり前でした。

人類はその長い歴史において、ずっと食糧不足と栄養失調に悩まされていましたが、いまやアメリカでは肥満、すなわち食糧の過剰摂取が大きな社会問題になっています。富める国と貧しい国の格差だと批判されますが、しかしこれではなぜアフリカで人口爆発が起きているかが説明できません。当たり前の話ですが、人口が増えるのは食糧が豊富だからで、食糧がなければ餓死してしまいますから人口は増えません。

1940年代から60年代にかけての「緑の革命」で、品種改良や化学肥料の投入が進んだ結果、人類は歴史上はじめて食糧不足から解放されました。民間シンクタンク「ローマクラブ」は、1972年の報告書「成長の限界」で、エネルギーの枯渇と食糧危機を警告しましたが、石油や天然ガスの確認埋蔵量は増えつづけ、先進国の農業はつくり過ぎに苦しんでどこも減反政策を導入しています。

アフリカの飢饉が頻繁に報じられますが、これは戦争や内乱などの社会的混乱で農作業ができなかったり、物流が滞ったりするためです。政治が安定すれば安価な食糧を入手できるようになり、ふたたび人口が増えはじめます。

20世紀前半は戦争の時代で、第二次世界大戦で日本は広島と長崎に原子爆弾を投下され、民間人を含む300万人が犠牲になりました。世界全体では、ソ連の2000万人、中国の1000万人をはじめ、餓死者を含む戦争の犠牲者の総数は6000万人にのぼります。

戦争が終わっても、米ソの冷戦の激化で、核戦争による人類滅亡がリアルな恐怖としてひとびとを襲いました。日本では1973年に『日本沈没』と『ノストラダムスの大予言』がベストセラーになりますが、高度経済成長真っ只中の、未来への悲観的な雰囲気をよく示しています。

グローバリズムが諸悪の根源のようにいわれますが、経済のグローバル化によって、中国では過去15年で3億人が貧困から抜け出し、2030年までには新興国を中心に新たに20億人が中流階級に加わるといわれています。このようなデータを客観的に眺めれば、世界がよりよくなっていることは間違いありません。

しかし私たちは、無意識のうちに、過去は安定していて未来は不確実だと思ってしまいます。過去がどれほど悲惨でも、終わってしまったことは現在の脅威にならないからです。

私たちは、人類の歴史上、もっとも幸福な時代に生きています。問題は、この単純な事実を認めるのが不都合なひとが多すぎることにあるのです。

『週刊プレイボーイ』2013年5月27日発売号
禁・無断転載 

PS 今回で『週刊プレイボーイ』の「そ、そうだったのか!? 真実のニッポン」が100回を迎えました。連載を始めた当初はこんなに続けられるとは思ってもいませんでした。これも、拙文をお読みいただいた皆さまのお陰です。これからもよろしくお願いします。

橘 玲

第30回 クレームが増える理由(橘玲の世界は損得勘定)

 

私はほとんどクレームをつけたことがないのだが、先日、鉄道会社との些細な紛争を体験した。事情は次のようなものだ。

新宿から成田空港に向かおうとしたとき、強風のため特急電車が運休になった。調べると西新宿から空港までのバスが出ているが、改札の有人窓口にはすでにひとだかりができている。列に並ぶ余裕はなく、やむなく自動改札から出場し、ぎりぎりで空港バスに飛び乗ってなんとか間に合った。

帰国後、駅の窓口に行くと、特急料金は払い戻せるが、乗車料金は切符がないから返金できないという(切符の購入は領収書で確認できる)。

もちろん私は、一般常識として、払い戻しには途中下車のスタンプを捺した切符が必要なことは承知している。しかし当時の状況では、混雑する有人改札の列の最後尾に並んでいては飛行機に乗り遅れてしまう。こうした事態は列車の運休によって引き起こされたのだから、自動改札を使ったことを顧客の責任にするのは理不尽だ。

けっきょく駅の窓口では埒があかず、「お客さま相談センター」と話をしたのだが、そこでも「原券がなければ無理」の一点張りでまったくとりあってもらえなかった。

最近はどの業界でも、消費者からのクレームの多発が問題になっている。これは“クレーマー”のせいだとされているが、私はマニュアル化された会社の苦情対応にも問題があるのではないかと思った。

以下、議論が噛み合わなかった理由を列挙してみる。

①権限のない人間が問題を解決しようとする

駅の窓口では、そもそも原券のない払い戻しをする権限がない。それにもかかわらず助役は、現場で問題を解決しようと、こちらが聞くまで相談センターの存在を教えなかった。

②いい加減なウソをつく

駅の窓口では「切符はすでに処分してしまった」と説明されたが、相談センターの担当者は「(新宿駅で投入した)切符を探したが見つからなかった」と言い訳した。

③責任の所在を曖昧にする

「返金しないのは私に責任があるということなのか」と訊くと「そうではない」という。「だったら鉄道会社の責任ではないか」というと「そうでもない」という。

④決定の理由を説明しない

「なぜ原券がないと返金できないのか」と訊くと、「原券がないからです」とこたえる。約款の条項など法的根拠はぜったいに教えない。

⑤規則と前例を譲らない

例外はいっさい認めない、という強固な意志だけははっきりしている。

⑥謝り倒して泣き寝入りを待つ

「運休で迷惑をかけたことは申し訳ないが返金はできない」とひたすら謝る。損害額が少ないので、そのうち諦めるだろうとの魂胆が見え透いている。

鉄道会社は半独占で、不愉快な思いをしても消費者には他の選択肢がない。むなしい交渉の後で、これならクレームが増えるのも当たり前だと思った。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.30:『日経ヴェリタス』2013年5月19日号掲載
禁・無断転

PS:紙幅の関係で概略しか説明できなかったのですが、①新宿-成田空港の乗車券を購入したこと(券売機の領収書で切符の番号まで確認できる)、②列車が運休したこと、③それによって新宿駅で退場し空港バスに乗車したこと(空港バスの領収書で乗車時間まで確認できる)の3点は鉄道会社も事実だと認めていて、私が新宿-成田空港間を乗車していないことと、有人改札を利用できない状況だったことにも同意しているにもかかわらず、「いかなる事情であれ切符がなければ払い戻さない」という話になるわけです。

ゲーム理論で新車をもっとも安く買う方法 週刊プレイボーイ連載(99)

 

あれほど大騒ぎした北朝鮮情勢は、中距離弾道ミサイルが撤去され、「戦争」の挑発もなくなり、すっかり尻すぼみになってしまいました。その後、中国の大手国有銀行が当局の指導を受けて、北朝鮮向けの送金を止めていることが報じられました。水面下でどのような駆け引きがあったかはわかりませんが、アメリカの経済制裁に中国が同調したことが北朝鮮を追い詰め、ミサイル撤去に至ったと思われます。

アメリカでは、国際政治の交渉にゲーム理論を使うのが常識です。有名なのは冷戦時代の「相互確証破壊」で、アメリカとソ連が相手を一瞬で消滅させるだけの大量の核兵器を保有することが、平和のための最良の戦略だとされました。この論理はひとびとの神経を逆なでしましたが、それによって米ソの「世界最終戦争」が避けられたのも事実です。

ゲーム理論は、すべてのプレイヤーが自分の利益を最大化すべく合理的な選択をするという前提のもとに、いくつかの単純なルールで相手の行動を予測します。そんなものが役に立つのかと思うかもしれませんが、ゲームの参加者の数が限られていれば、巧妙な戦略で相手を完全にコントロールすることも可能です。核開発問題の当事者は、北朝鮮と米国、中国(および韓国)ですから、米中が協力すれば北朝鮮はなにもできなくなってしまうのです。

これほど強力なゲーム理論を日常生活に活用する方法はないのでしょうか? ここでは、新車をもっとも安く買う方法をご紹介します。

ゲームの必勝ルールは、自分の情報を相手に与えず、相手の情報だけを手に入れることです。したがって、自分からカーディーラーに行くのは最悪の方法です。ディーラーは自分の手の内を見せることなく、あなたの情報をなんなく手に入れて、予算の上限までふっかけることができるからです。

ところで、ディーラーにいっさい情報を与えずに車を買うことなどできるのでしょうか。次のような方法を使えば、不可能が可能になります。

まず、車雑誌やインターネットで調べて、どの車を買うかを、装備も含めてあらかじめすべて決めておきます(ディーラーに相談してはいけません)。

次に、自分が住んでいる地区のディーラーをできるだけたくさんリストアップします。

そのうえで、順番にディーラーに電話をかけ、購入したい車種と装備の詳細を伝えた後で、次のようにいいます。

「この条件でいくらなら売ってくれるのか、あなたの最低価格を教えてください。その価格を次に電話するディーラーに伝えて、すべてのディーラーのなかでもっとも安いところから購入します。なお、購入する場合はその金額にぴったりの現金しか持って行きません」

これでディーラーは、あなたの情報をなにひとつ知ることができないままに、最低価格を提示するほかなくなります。この戦略はゲーム理論的には完璧なので、ディーラーにあなたと駆け引きする余地はまったくないのです。

もっとも私は車を持っていないので、「ぜったい得する」この方法を試したことはありません。やるとなるとけっこう大変そうな気もしますが、試してみたい方はどうぞ。

参考文献:ブルース・ブエノ・デ メスキータ『ゲーム理論で不幸な未来が変わる!』

『週刊プレイボーイ』2013年5月20日発売号
禁・無断転載