トランプ大統領を子どもの疑問で考えてみる 週刊プレイボーイ連載(276)

科学の世界では、「子どもの疑問」を使って正しい知識を持っているかが判別できます。ちょっとやってみましょう。

宇宙はなぜ暗いの? 真空で、光を反射するチリなどがないから

宇宙はなぜ真空なの? 空気を引き止めておく引力がないから

だったら、地球にはなぜ引力があるの? それは……

たいていのひとはこのあたりで言葉に詰まるでしょうが、専門家なら引力と質量の関係をわかりやすく説明できるはずです。

ところで、子どもが疑問を持つのは宇宙の神秘だけではありません。トランプ大統領就任などは、山のような疑問で押しつぶされそうになっているでしょう。そこでここでは、「なんであんなヘンなオジサンが大統領になったの?」という定番のものは脇に置いて、こたえてほしい「子どもの疑問」をいくつかあげてみましょう。

疑問1 「TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)はアメリカに一方的に有利で、日本にはなにひとついいことがない」といってたひとがいっぱいいたけど、なぜトランプは「アメリカになにひとついいことがない」といってTPPから離脱したの?

疑問2 「自由貿易はグローバリストの陰謀で、日本の雇用を破壊する」といっていたのに、自由貿易を否定し、国境に壁をつくり、移民を追い出し、企業を恫喝して工場を誘致するトランプをなぜ大歓迎しないの? まったく同じことをいってるのに、「自分はトランプとは関係ない」というふりをするのはなぜ?

疑問3 「景気は政治でよくすることができる」といって株価を上げる政策をさんざん要求していたのに、就任直後にニューヨーク株価が史上最高値の2万ドルを超えたトランプ政権を大絶賛しないのはなぜ?

疑問4 「米軍基地は沖縄にいらない」といっていたのに、「もっと駐留経費を払え」と脅すトランプにビクビクするのははぜ? 「自衛隊を軍隊にして核武装するから、在日米軍はどうぞ撤退してください」といえばいいのに。

疑問5 「マスコミはマスゴミ」といって新聞やテレビを批判していたのに、トランプが同じことをいうとイヤな顔をするのはなぜ? あるいは、アラブの春のときは「SNSが世界を変える」といっていたのに、待望の「Twitter大統領」が誕生したのに青くなっているのはなぜ?

これ以外にもいくらでも思いつきますが、このくらいでやめておきましょう。不思議なのは、こうした子どもの疑問に誰もこたえようとしないことです。

たとえば、TPPから離脱したトランプが正しいのなら、これまで「TPPはアメリカのためのもの」と叫んでいたひとたちはウソつきばかりということになりますが、それでいいのでしょうか。「TPPはグローバリストの陰謀だ」というかもしれませんが、だとしたらトランプがいまやっていることはすべて正しい、と認めなければなりません。

もっとも、このひとたちに「子どもの疑問」を突きつけるのはちょっとかわいそうかもしれません。ある朝目が覚めて鏡を見たら、そこには自分ではなくトランプの顔が写っていた――だったら慌てふためいて狂乱するのも無理はないですね。

『週刊プレイボーイ』2017年2月6日発売号 禁・無断転載

ある日突然、戸籍に見知らぬ外国人の名前が載っていたら 週刊プレイボーイ連載(275)

一夫一妻制の国では重婚は犯罪です。日本は戸籍制度があるので、複数の女性を法的な配偶者にすることは不可能だとされています。

しかし現実には、戸籍に2人の配偶者が記載されることがあります。そのうえ本人のまったく知らないうちに戸籍が書き換えられ、重婚の状態になることもあります。

なぜこんなことが起きるかというと、海外で現地の女性と結婚式を挙げたものの、日本の戸籍にはそのことを載せない男性がいるからです。その後、2人の関係が破綻して、日本人の父親が妻子を捨てて日本に帰ってしまう、ということも珍しくありません。この場合、日本では戸籍上独身ですから、日本人女性とあらたに結婚してもなんの問題もありません。

しかしじつは、ここに「罠」があります。

国際私法では「婚姻の方式は、婚姻挙行地の法による」とされており、日本人が海外で結婚式をあげた場合、現地の政府が発行した正式な証明書があれば、日本でも婚姻の事実が認められます。さらに戸籍法では、婚姻届は、その事実があればいつでも提出できます。この2つを組み合わせると、海外で日本人男性と結婚した外国人女性は、何年後、あるいは何十年後でも、その事実を日本の戸籍に記載させることができるのです。そしてこのとき、男性が別の女性と結婚していれば、「合法的」に2人の妻を持つことになります(理屈のうえでは日本人女性と外国人男性でも同じことが起きますが、そのようなケースは聞いたことがありません)。

この事実が知られるようになったきっかけは、フィリピンで「新日系人」と呼ばれる子どもたちの存在が社会問題になったからです。彼らは日本人男性とフィリピン人女性のあいだに生まれましたが、父親が養育を放棄したため、フィリピンで母子家庭の貧困生活を余儀なくされていました。しかし母親がフィリピン政府の発行する結婚証明書を持っていれば、父親が日本人であることを証明できますから、血統主義の日本の国籍法では子どもは「日本人」になるはずです。

こうしてフィリピンで、新日系人に日本国籍を取得させるビジネスが始まりました。そのためにはまず、フィリピン人の妻を日本の戸籍に記載させます。するとそれに基づいて日本の大使館から渡航ビザが発給され、本人あるいは母子で日本に行くことができます。そして国籍法に定められた一定の居住要件を満たせば、戸籍上、日本人の父を持つ子どもには自動的に日本国籍が与えられるのです。そして驚くべきことに、これはたんなる行政手続きなので父親の同意や許諾が必要ないばかりか、その事実を通知する義務もないのです。

成人した新日系人が日本国籍を取得すれば、「日本人」として自由に働くことができます。幼い子どもに日本国籍が与えられれば、母親は保護者として日本での労働ビザが発給されます。これが国籍取得の目的ですが、自業自得とはいえ、知らないうちに戸籍を書き換えられ、重婚になった男性とその家族はいったいどうなるのでしょうか。

そんな話を小説『ダブルマリッジ』(文藝春秋)で書きました。

ある日突然、戸籍に見知らぬ外国人の名前が載っていたら、あなたはどうしますか?

『週刊プレイボーイ』2017年1月30日発売号 禁・無断転載

『ダブルマリッジThe Double Marriage』誕生裏話

『ダブルマリッジThe Double Marriage』は『別冊文藝春秋』2015年11月号~2016年9月号まで6回にわたって連載されました。「ただいま連載中」のコーナーでこの本が生まれるきっかけをすこし書いたので、一部加筆してアップします。

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2013年3月に『月刊文藝春秋』の取材でフィリピンの日本人向け介護施設を訪ねました。米軍基地の将校宿舎を改築したその施設を運営しているのは、日本の老人ホームにフィリピン人介護士を派遣している会社で、その現地責任者がIさんでした。

マニラ郊外にあるIさんのオフィスで外国人看護師・介護士の受け入れ問題について話を聞いているとき、壁に奇妙なボードがかかっているのに気がついて、帰り際に「これは何ですか?」と訊いてみました。そのボードには、フィリピン人の名前の横に「戸籍」という欄があり、そこに「OK」とか「調査中」などの記号が並んでいたのです。

「ああ、これは日本で働きたい新日系人が、戸籍を書き換えて日本人になるためのものなんですよ」あっさりと、Iさんはいいました。

フィリピンには、第二次世界大戦以前に日本人の父親とフィリピン人の母親のあいだに生まれ、敗戦によって取り残された多くの日系人がいます。その後、1980年代になるとフィリピンから“じゃぱゆきさん”と呼ばれる女性たちが大量に日本に出稼ぎに来るようになりました。彼女たちと日本人男性のあいだに生まれ、父親から認知も援助を受けられず、フィリピンで育てられた子どもたちを「新日系人」というのだそうです。

この新日系人が国際的な人権問題になるのを防ぐため、日本政府は彼らに積極的に日本国籍を与えるよう方針を変えました。こうして、フィリピンで結婚の事実が証明できる場合は、行政手続きによって戸籍を書き換え、フィリピン人の母親を戸籍上の配偶者にしたうえで、その子どもを「日本人」にするビジネスが始まったのです。

私はそのときはじめてこのことを知ったのですが、それからずっと、「日本人」と「国籍」をめぐる物語を書いてみたいと思ってきました。その後、日本国籍を取得した新日系人の若者たちの話を聞いたり、本作の舞台となるマニラのスコーターや孤児院、ビコールのスコーターを訪れるなどして、『ダブルマリッジThe Double Marriage』にまとめることができました。一人でも多くの「日系日本人」がこの問題に目を向けるきっかけになればと思います。

橘 玲