検察法改正でほんとうはなにが問題だったのか? 週刊プレイボーイ連載(432)

検事総長らの定年延長を可能にする法案改正に対し、SNSで「#検察庁法改正案に抗議します」の投稿が広がり、大きな政治争点になりました。とはいえ、素人にはいったい何が問題なのかよくわかりません。

この改正案はもともと、年金支給年齢の引き上げにともない、国家公務員の定年を65歳まで延長するという改革の一部です。一般の公務員の定年はこれまで60歳でしたが、検察官は63歳とされていました。ところがこのままだと検察官の定年が2年早くなってしまうため、それを是正する必要があるというのが法案改正の本来の趣旨です。

政府としては、公務員の定年延長を先行させることで、65歳までの雇用に二の足を踏む民間企業の背中を押したいとの思惑があるようです。とはいえ、年功序列のまま定年を延ばせば人件費が膨らんでしまいますから、60歳以上は給与を引き下げたり、短時間勤務に移行したり、役職定年制を設けて管理職から外すようにしています。

しかしそれでも、一律に役職定年を実施してしまうと、引き継ぎがうまくいかないなど組織の運営に支障をきたすに事態になりかねません。そこで、大臣など任命権者が認めた場合にかぎり、役職定年を延長できる例外規定が置かれました。

わかりにくいのは、ここまでは野党を含め誰も反対していないことです。だったらどこで意見が分かれるかというと、この役職定年の延長を検察官にも適用したことのようです。

問題の発端は、今年1月、カルロス・ゴーン事件をはじめとする「重大かつ複雑困難事件の捜査公判に対応するため」として、安倍内閣が東京高検検事長の勤務延長を閣議決定したことです。この検事長は一部のマスコミから「安倍官邸の番犬」と呼ばれており、森友学園問題や「桜を見る会」の疑惑などに特捜部が乗り出すのを封じる策略ではないかと疑われたことで事態が紛糾しはじめます。

その後の議論は錯綜していますが、結論からいうと、焦点は検察官の役職定年延長でもなく(他の国家公務員と同じなので)、この検事長が検事総長に就任し、「番犬」として安倍氏やその周辺を守りつづけることにあるようです。この予想(「反安倍」にとっての悪夢)が実現するかどうかはわかりませんが、「検事長が勤務延長を固辞していればこんなことにはならなかった」との批判はそのとおりでしょう。

残念なのは、検察庁法改正の騒動に紛れて、「公務員の定年延長」という改革の是非をめぐる議論がまったく消えてしまったことです。「生涯現役社会」を目指すのはどの国も同じですが、本人の意思を無視して強制的に「解雇」する定年制は「年齢差別」と見なされるようになり、いまでは「定年廃止」が世界の大きな流れになっています。そのなかで、「定年を延長するかわりに給与を減らす」日本の「改革」はかんぜんに時代遅れなのです。

そもそも「年次」によって役職が決まるという、軍隊のようなことをいまだにやっている公務員の世界が異様なのです。ほんとうに実力があれば、40代の検事総長が生まれたっていいでしょう。

「働き方改革」が終身雇用・年功序列・定年を当然の前提にしているようでは、「日本の夜明け」はまだまだ遠そうです。

【追記】これは5月15日執筆のコラムですが、その後、事態は急展開し、検察庁法の今国会での法案提出を断念したあとに、疑惑の東京高検検事長が新聞記者宅で賭け麻雀に興じていたことが暴露され辞任しました。それにともなって国家公務員の定年を延長する国家公務員法の廃案が与党内で議論されています。

『週刊プレイボーイ』2020年5月25日発売号 禁・無断転載

「軽率な発言」への私刑(リンチ)はどこまで許されるのか? 週刊プレイボーイ連載(431)

人気お笑いタレントが深夜のラジオ番組で、女性を貶めるような発言をしたとして炎上騒ぎに発展しました。

発言の経緯を見ると、リスナーから「コロナの影響でしばらく風俗行けない。思い切ってダッチワイフを買おうか真剣に悩んでいる」との相談が寄せられ、「苦しい状態がずっと続きますから、コロナ明けたらなかなかの可愛い人が、短期間ですけれども、美人さんが、お嬢(風俗嬢)をやります。なんでかって言うたら、短時間でお金を稼がないと苦しいですから」「今我慢して、風俗に行くお金を貯めておき、仕事ない人も切り詰めて切り詰めて、その時のその3カ月のために、頑張って今歯を食いしばって、えー、踏ん張りましょう」と述べたとされます。

たしかに軽率な発言ですが、その趣旨はリスナーに対し、「この時期に風俗に行くのは我慢して感染拡大を防ごう」というもので、その理由として「コロナが収束したらいいことがある」との軽口で笑いを取ろうとしたのでしょう。男同士の会話としてはよくあるもので、「経済的に困窮する女性を蔑視している」といわれればそのとおりでしょうが、芸能人として社会的生命を断たなければならないほどの「罪」とは思えません。

この事件をはじめとして、SNSなどで広がる炎上騒ぎの問題は、罪の重さが恣意的に決められていることです。当然のことながら法治国家では、罪を判定し刑を科すことができるのは司法だけです。もしその行為が違法でないのなら、どれほど不愉快であっても、表現・思想信条の自由として許容するのがリベラリズムでしょう。

ところがネット上の「道徳警察」は、自分たちで罪を認定し、本人が謝罪してもなお「謝り方が気に入らない」として番組からの降板を求める署名を集めています。これは「私刑(リンチ)」であり「公開羞恥刑」以外のなにものでもありません。

かつては多くの国に、公の場で恥をかかせる羞恥刑がありました。18世紀のアメリカでは不倫をした妻と間男は2人とも公開のむち打ち柱で打たれることになっていましたが、その後、「公衆の面前で屈辱を与える刑罰は死刑よりも残酷である」との批判が高まり、19世紀半ばまでにほぼ廃止されます。ところがその羞恥刑が、21世紀になって「私刑」として復活したのです。

道徳バッシングがなぜこれほどまでひとを夢中にさせるかというと、それがきわめて強い「快感」をもたらすからです。脳科学は、不道徳な行為を罰すると脳の快感回路が刺激されて神経伝達物質のドーパミンが分泌されることを明らかにしました。

ネットニュースでもっともアクセスが多いのは「芸能人」と「道徳」の話題だといいます。芸能人の不道徳なスキャンダルはこの2つの組み合わせですから、ページビューを増やして手っ取り早くお金を稼ぐもっとも効率的な方法です。

こうしてニュースを提供する側の利益と、そこから快感を得ようとするひとびとの欲望が一致して、異様な公開羞恥刑が起きるのでしょう。この仕組みはきわめて強固なので、私たちはこれから何度も同じような光景を見ることになるはずです。

参考記事:岡村隆史「コロナ明けの風俗を楽しみに」貧困セックスワーカー増加を歓迎し猛烈批判

参考:ジョン・ロンソン『ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち』 (光文社新書)

『週刊プレイボーイ』2020年5月18日発売号 禁・無断転載

「お願い」で私権を制限するのは全体主義 週刊プレイボーイ連載(430)

新型肺炎の感染拡大を防ぐために自治体がパチンコ店に休業要請したところ、それでも営業を続ける店に客が殺到し、一部の自治体が店舗名の公表に踏み切りました。さまざまな議論を呼んだこの問題を2つに分けて考えてみましょう。

まず、自治体による「要請」というのは「お願い」で、当然のことながら、相手から「お願い」されてそれに応じるかどうかは本人の自由です。店舗名公表によってこれを実質的に強制するのは、憲法で保障された「基本的人権」を明らかに侵害しています。

しかし現在は、治療法のない感染症が蔓延する「緊急事態」です。そんななか、ほとんどの店が要請に従っているのに、一部の店舗だけが営業をつづけて利益をあげるのは間違っているとほとんどのひとは思うでしょう。

この疑問は当然ですが、なぜこんなおかしなことになるかというと、緊急事態なのに「お願い」しかできない法律だからです。ここから「営業させないなら休業補償しろ」「店が納得するように丁寧に説明すべきだ」との意見が出てくるわけですが、これを緊急事態の典型である戦争に当てはめてみましょう。

敵が迫ってきて、自衛隊が国土防衛のために私有地に軍を展開しなければならないときに、「お宅の土地の使用料はいくらにしましょうか」とか、「あなたの家が戦闘で破壊されるかもしれませんが、なんとかご納得いけませんでしょうか」とか、一軒一軒交渉するのでしょうか。

「緊急事態」というのは、定義上、「問答無用で私権を制限しなければならない事態」のことです。だからこそ、日本よりずっとリベラルな欧米の国々では、国や自治体のトップが店舗の営業停止やオフィスの閉鎖を矢継ぎ早に命令しているのです。

もちろんだからといって、国・自治体は何もしなくてもいいわけではありません。しかし順番として、補償や経済支援の話は、緊急事態に必要な措置をとったあとになるはずです(そうでなければ緊急事態に対応できません)。

それにもかかわらず日本では、法律上、「お願い」以上のことができないようになっています。しかしこれでは、要請に従った店が「正直者が馬鹿を見る」ことになるので、なにか別の方法で強制力をもたせなければなりません。このときに使われるのが「同調圧力と道徳警察(バッシング)」です。驚くべきことに、日本では法律ではなく「村八分」の圧力によって社会が統制されているのです。

さらに驚愕するのは、「リベラル」を自称するメディアや知識人が、この「法によらない権力の行使」を批判しないばかりか、積極的に容認しているように見えることです。こんなことが許されるなら、国家は「道徳」の名の下に、際限なく国民の私権を踏みにじることができます。これはまさしく「全体主義(ファシズム)」でしょう。

改正特措法(新型インフルエンザ等対策特別措置法)が議論されていたとき、真のリベラルであれば、「法によって私権の制限を命令できるようにすべきだ」と主張しなければなりませんでした。残念なことに、この国にそんなリベラルはどこにもいなかったようですが。

『週刊プレイボーイ』2020年5月11日発売号 禁・無断転載