相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」に刃物をもった元職員の男が侵入し、入所者19人を殺害、職員を含め26人が重軽傷を負った事件から10年が経過し、メディアではさまざまな回顧報道がなされましたが、それらには一貫した共通点があります。
まずは加害者の「優生思想」を批判し、次いでそのような歪んだ価値観を生み出した社会の「優生思想」を反省する。事件の風化を防止し、障害者を施設に収容するのではなく、共生できる社会をつくらなければならないと結ぶ。――この構成以外の報道を探すのが困難なほど、各社が同じストーリーを語っていたのです。
誰もが同じことをいうときに、真っ先に疑わなければならないのは、「全員の意見が一致しているなら、なぜとっくにそうなっていないのか」です。
こうして、「悪者探し」が始まります。正義が実現できないのは、それを阻む悪があるからにちがいない、というわけです。この場合、その悪は「現代社会に潜む無意識の優生思想」になるでしょう。
優生学(eugenics)は19世紀末のイギリスで、ダーウィンのいとこであるフランシス・ゴルトンが提唱した思想です。優生学者は、家畜の品種改良があまりに成功したのを見て、好ましい身体的特徴や知能などの精神的特徴をもつ子孫を増やし、そうでない子孫を残さないようにすれば、優れた人間たちによる素晴らしい社会が到来するにちがいないと考えました。
これはいわば「人間の品種改良」ですが、これを大真面目に主張したのは差別主義者ではなく、「よりよい未来」「よりよい社会」を目指す“リベラル”な知識人たちでした。
ゴルトンの後継者で統計学の基礎を築いたカール・ピアソンは代表的な優生学者ですが、若いときからカール・マルクスに心酔した社会主義者で、Carlというイギリス風の名前をマルクスと同じKarlに変えています。
優生学はその後、ナチスによるユダヤ人絶滅政策(ホロコースト)を引き起こしたとして全否定されました。やまゆり園事件の加害者は人間の品種改良を目指していたわけではありませんから、犯行の理由を優生思想とするのは無理があります。
だとしたら、彼は自らの凶行をどのように正当化したのでしょうか。それは、「意思疎通のできない人間は生きていても仕方がない」という言葉から推測できます。
日本や欧米などリベラルな社会では、「自分らしく生きる」ことが神聖化されています。リベラリズムとは「誰もが自分らしく生きられる社会をつくろう」という運動で、それが自由、平等、人権などの近代的な価値観と結びついています。
ここまでは左翼はもちろん、いまでは右翼も否定しないでしょうが、そうなると「自分らしく生きられない」者はどうすれないいのでしょうか?
そのように考えれば、加害者が突きつけたのは「意思疎通できない人間は自分らしく生きられるのか」という問いであることがわかります。メディアの報道が画一的になるのは、この事件の本質が「リベラルの病理」であることを認めることができないからではないでしょうか。
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