「評判中毒」という病

「マネーゲームと評判ゲーム」を書いたときに、僧侶・小池龍之介の「情報端末から距離を」というインタビュー記事を思い出した(日経新聞2010年12月20日)。

このインタビューで小池は、スマートフォン人気への異論として、デジタルツールを通じてひととひとがつながるのは錯覚だ、と述べている。私たちはつねに「自分が人からどう扱われているか」「大事にしたいと思われているか」を気にしていて、Twitterやメールですぐに返事がくると快感を得、返事を早くもらえないと不安になる。麻薬が快感をもたらすのは脳内物質のドーパミンを分泌させるからだが、ひとと「つながる」という錯覚はこれと同じ快感を生み出し、中毒症状に陥っていくのだという。

「情報端末から得られるのは、主に記号情報です。会話する相手の顔や声はなく、文字やアイコンだけです。人間の脳は、記号からイメージをバーチャルに再構成する性質を持っています。言語は抽象度の高い伝達手段なので、受け取る側は情報を変形、加工しなければならない。いくらでも連想ゲームを発展させることもできます。その作業を行うとき、私たちの心はとても疲れるのです」

もちろん「唯脳論」的にいえば、視覚や聴覚、嗅覚、味覚、触覚など「外部デバイス」から脳が取り込むのはすべて記号情報で、脳はそこから“主観”を構成する。そう考えれば、「リアル」と「バーチャル」には本質的なちがいはない。有体にいってしまえば、携帯電話やメールのない時代でも、私たちはみんな表情や仕草、噂や伝聞などの「情報」を変形、加工し、相手の気持ちを想像して喜んだり悲しんだりしてきたのだ。

しかしそれでも、「ネット空間で本当に売られているものは何だと思いますか? 実は『自分』が商品になっているのです」という小池の指摘は、いまの時代をきちんと見据えている(「Facebookと〈私〉」)。〈私〉についての噂や評判ほど、私たちを夢中にさせるものはないのだ。

このことを進化心理学は、「社会的な動物であるヒトや類人猿は、高い評判を獲得することでより多くの異性と交尾するよう進化してきた」と説明する。チンパンジーのコロニーの観察からも、ボスザル(アルファオス)は暴力によって群れを支配しているのではなく、もっともメスに人気のあるオスだということがわかっている。他者からどう見られているかを気にするのは社会的動物の本性なのだ。

インターネットの登場まで、ごく一部の有名人を除くほとんどのひとにとって、「評判」とは学校や会社、PTAのような地域共同体など、「世界」から隔離されたごく小さな村社会のなかの出来事だった。だが情報通信技術の急速な進歩によって、グローバルな規模で自分の評判が可視化できるようになった。いまや私たちは、ネットに流通する〈私〉の評判をリアルタイムで追跡していくことができる。それがどれほど強い“中毒性”を持つかは、ネットの世界で日々起きている大小さまざまなトラブルを見れば明らかだろう。

私たちは「評判社会」に囚われていて、そこから抜け出すことができない。仏教者の小池はこれを業とみなし、「小まめに情報機器の電源を落とし再開のハードルを高くすべき」と助言するが、そんなことではこの“現代の病理”になんの効果もないだろう。

私たちが評判を気にするのはそれが生得的な感情だからで、ソーシャルネットワークがその感情を世界大に拡張した。瞑想や隠遁によるしずかな生活を説くひともいるだろうが、それもまた商品化されて電脳空間に流通していく。

けっきょく私たちは、自分から逃れることはできないのだ。