ベトナムのホーチミンにある証券会社に興味本位で口座をつくってみたのは2007年で、当時は日本人の顧客はほとんどおらず、若い女性の担当者と英語でやりとりした。
いまでも覚えているのは、手続きが終わったあとに彼女から、「日本の女性は30代になるまで出産しないというのは本当か?」と真顔で聞かれたことだ。ベトナムでも高学歴の女性のあいだで、キャリアと子育てのトレードオフが意識されるようになったのだ。
それからずいぶんたって、海外に行く機会も減ったので、口座を閉じることにした。以下はその顛末だ。
最初のトラブルは、口座開設時のパスポートの有効期限が切れていることだった。メールで担当者に問い合わせると、そのためにはパスポートの認証書類が2部必要で、代々木のベトナム大使館で認証手続きをする必要があるという。それならホーチミンを訪れたときにやればいいと思って、人民委員会に新しいパスポートと顔写真の入っているページのコピーをもっていった。
その役所はパスポート以外にもさまざまな行政書類の認証をしているようで、私以外はほとんどが地元のひとたちだった。ようやく順番が回ってきたと思ったら、顔写真のあるページだけでなく、白紙の部分も含め全ページのコピーが必要だという。
建物の中の売店にコピー機があるというので、そこに行くと、 コピーの出来上がりを待っていた女性が英語で親切にやり方を教えてくれた。日本円で350円ほど払ってパスポートの全ページを2部コピーし、もういちど戻って認証手続きをしてもらった。
担当者はパスポートと顔写真のページのコピーを確認してサインしただけで、そのあとは腱鞘炎なのか、手首にサポーターをした女性がすべてのページにスタンプを押した。ベトナムの行政システムは、いまもフランス統治時代の習慣を引き継いでいるかのようだ(所要時間は1時間半、認証手数料は約2300円)。
パスポートと認証されたコピーの束をもって証券会社に行き、上手な日本語を話す女性の担当者に、保有株を成り行きで売却して口座を解約し、資金を日本に送ってもらうよう依頼した。さまざまな書類にサインして、これですべて終わったはずだった。
ところが、それから1カ月してもなんの音沙汰もない。不思議に思ってメールしてみると、別の担当者が現われて、口座にある株式を売却するには、オンライン取引の口座を開設して、顧客が自分で取引しなければならないという。
そんな話は聞いてないと文句をいおうと思ったが、明らかに翻訳ソフトの文面で「わたしたちはなにもできない」と書いてあるので、時間の無駄だと思ってオンライン口座開設の必要書類とパスポートのコピー(今回は顔写真のページのみ)をEMS(国際スピード郵便)で郵送した。
オンライン口座はすぐにでき、単位株と端株はなんとか売却できたが、「一時的に取引が中止されている株」と売買が成立しない「取引待ち株」が残った。これを売却するには、オンライン画面を毎日チェックして、取引できるタイミングを待つしかないという。
とてもそんなことはやっていられないので、いまある資金だけでも日本に送金することにした。証券会社の預け金はいったん提携するベトナムの銀行に送られ、そこから海外送金されるのだという。
指示どおりに送金指示書や外貨売買取引確認書、パスポートのコピー(これで3回目の提出)をEMSで郵送したが、書類を受け取ったというメールのあと1カ月たってもなんの連絡もない。そこでまたメールしてみると、ちょうど銀行の手続きが完了したという。その翌週、銀行から入金の案内があった。
けっきょく、ホーチミンの証券会社を訪れて口座解約を依頼してから、資金が戻るまで4カ月かかった。入るときは簡単でも出るときは難しい蟻地獄みたいだと思ったものの、それでも口座のお金は無事に回収でき、それなりに興味深い経験になった。
橘玲の世界は損得勘定 Vol.124『日経ヴェリタス』2025年11月4日号掲載
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