ソロスから学んだこと(『月刊文藝春秋』6月号「自著を語る」)

『月刊文藝春秋』6月号「自著を語る」で『臆病者のための億万長者入門』について書きました。編集部の許可を得て、「ソロスから学んだこと」を転載します。

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「ヘッジファンドの帝王」ジョージ・ソロスは1930年にブダペストのユダヤ人家庭に生まれた。

第一次世界大戦で敗戦国となり領土の大半を失ったハンガリーでは民族主義が高揚し、ナチス・ドイツに与して領土回復を目指していた。第二次世界大戦が勃発したのはソロスが9歳の時で、ブダペストのユダヤ人も次々と収容所に送られていった。

そんな彼らを救うために尽力したのがソロスの父親だった。第一次世界大戦後、シベリアの収容所から脱走し、ロシア革命のなか8000キロを逃げ延びて帰還した父親は幼いソロスのヒーローだった。弁護士となった父はナチスという新たな脅威を前にして、「非常事態には法は適用されない」と宣言してソロス家の指揮をとり、家族全員の身分証を偽造し避難先を手配するとともに、助けを求める同胞に偽の身分証明書類を提供した。

敗色濃厚となったドイツ軍がブタペストを占領すると、市街戦とユダヤ人虐殺が始まった。路上には人間や馬の死体が転がり、ソ連の戦闘機が機銃掃射を繰り返すなか、13歳のソロスは秘密部屋を出て街を探索し、近くの井戸から水を汲み上げて家に運んだ。ソロスは後年、ブダペストが炎に包まれたこの年を「人生でもっとも幸福な日々」と回想している。

勉学のためイギリスに渡ったソロスは科学哲学の大家カール・ポパーに憧れて学問の道を志すが挫折し、26歳でアメリカに渡って株の取引を始めた。だがソロスが求めたものは、経済的な成功ではなかった。じゅうぶんな富を得て33歳でビジネスの第一線から退いたソロスは学問に戻り、哲学書を書き上げるために3年を費やした。ソロスがヘッジファンドの運用者として再登場するのは、その試みを放棄した後だ。

大富豪となってからも、ソロスは贅沢にはまったく興味を示さなかった。ある晩餐会の席で、隣に座った婦人から、「お金儲けが好きだと気づいたのはいつか」と訊ねられ、「金儲けは好きではありません」とソロスは答えた。「ただ、うまいだけです」

ドイツ生まれの妻とのあいだに3人の子どもをもうけ、莫大な富を手にしながらも、ソロスは自らの人生に満足することができなかった。48歳で家を出て小さな家具つきアパートを借りると、そこに服を詰めた数個のスーツケースと何冊かの本を運んだ。

その後、ソロスは近くのテニスコートで若い女性と知り合った。その女性と再婚することになるのだが、ソロスから「自分はウォール街で成功した富豪だ」と打ち明けられたとき、彼女は「絶対ペテン師だと思ったわ。小銭も持っていない男だってね」と決めつけた。

1992年、ソロスは大規模な通貨取引を仕掛け、ポンドの暴落で10億ドル(当時の為替レートで1200億円)の利益をあげ、「イングランド銀行を打ち負かした男」として世界に衝撃を与えた。1997年のアジア通貨危機では、マレーシアのマハティール首相から通貨暴落の元凶として名指しで批判されてもいる。

その一方で世界有数の富豪となったソロスは「開かれた社会(オープンソサエティ)」のための財団を設立し、冷戦終結後の東欧の民主化に貢献した。ソロスが慈善事業に投じた資金は80億ドル(約8000億円)を超えている。

ソロスは金融市場で大きなリスクをとることで、とてつもない成功を手にした。彼が投機を恐れなかったのは、少年時代のブダペストでの体験があったからだ。ヒーローである父の指揮下で死体の散乱する街を駆け回ったあのわくわくする日々を、ソロスは取り戻そうとしていた。

だが金融市場からどれほどの富を得ても、ソロスの渇望が癒されることはなかった。金融取引のリスクなど、ほんものの戦争と比べればしょせんまがいものでしかないのだ。

この数奇な体験を紹介したのは、ソロスが“ふつう”ではないからだ。一生使い切れないほどの富を得た後で、さらに血眼になって金儲けをしたいとは私たちは思わない。ソロスが投機を求めるのは、それなくしては生きていけないからだ。

金融市場は人類が生み出した史上最大のギャンブル場で、そこでは“ふつう”でない人々が仮想取引(ヴァーチャルゲーム)に己の実存を賭けている。だがその絢爛豪華な舞台装置にばかり目を奪われていると、大切なことを見落としてしまう。金融市場は、私たちの人生の経済的な土台(インフラ)をつくるものでもあるのだ。

それが、“ふつう”のひとのための「億万長者入門」を書こうと思った理由だ。

参考文献:マイケル・T・カウフマン『ソロス』(ダイヤモンド社)
『月刊文藝春秋』6月号
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