そしてすべてが善悪二元論になる 週刊プレイボーイ連載(353)

東京オリンピックを目指す女子体操選手へのパワハラ問題で、日本体操協会が大混乱しています。一連の経緯をざっとまとめると、こんな感じになるでしょう。

(1) 女子代表候補選手を指導する男性コーチに対して、日本体操協会が、暴力行為(体罰)を理由に無期限の登録抹消処分を課した。

(2) 当の女子体操選手が記者会見し、コーチの体罰を「指導」だと受け入れていたことを認めたうえで、調査の過程で体操協会の役員夫婦から、自分たちが運営するクラブに移籍するよう強要されたと「パワハラ」を告発した。

(3) 体操協会が第三者委員会による調査を発表し、役員夫婦は職務一時停止の処分を受けた。

(4) 民放テレビが、体操クラブの練習場で男性コーチが女子選手をはげしく平手打ちする「暴力映像」を公開。

(5) 女子選手が、「自分を貶めるために無断で過去の映像を放映した」とテレビ局に抗議。

こうした出来事が2週間ほどのあいだに次々と起こるのですから、部外者にはなにがどうなっているかまったくわからず、だからこそひとびとの興味や関心を掻き立てるのでしょう。

ここで興味深いのは、事件の進展とともにメディアの態度が大きく変化したことです。

第一報では、大学アメフト部の事件と同様に、選手を暴力で支配しようとしたコーチに非難が集中しました。しかし「被害者」本人が記者会見で体操協会のパワハラを告発すると、こんどは協会を牛耳っている(とされた)元メダリストの夫婦に非難の矛先が向けられます。ところが「暴力映像」で体罰の実態が明らかになったとたん、「こんなコーチを擁護するのは洗脳されているからだ」と女子選手を批判する論調が出てくるのです。

ここからわかるのは、メディアの役割が「事実(ファクト)」を追求することではなく、読者や視聴者に事件をわかりやすく伝えることだという単純な「事実」です。

複雑な出来事を複雑なまま理解しようとすると、脳に負荷がかかって苦痛を感じます。こうしてひとは、善悪のはっきりした単純な物語だけをひたすら求めるようになります。

このように考えれば、大衆メディアが善悪二元論になっていくのは宿命みたいなものです。

メディアの役割は「悪」を特定し、読者や視聴者を「悪」を叩くよう誘導することです。そうすると気分がよくなって、視聴率が上がったり部数が増えたりします。なぜなら、「悪」を叩くのは「善」に決まっているから。――これがメディア商売の基本です。

今回の事件の背景には、体罰による「指導」を容認する日本のスポーツ界の軍隊的な体質があり、それはパワハラが蔓延する学校や会社も同じです。なぜこんなことになるかというと、日本社会が「先進国のふりをした前近代的な身分制社会」だからです。

新卒一括採用という軍隊の徴兵みたいなことをやっているのは、いまでは世界で日本だけです。日本人は「右」も「左」も軍隊が大好きで、だからこそ自分たちにぴったりの抑圧的な組織や社会をつくりだすのです。

もっともこんな「むずかしい」話をしても面白くもなんともないので、誰も相手にしてくれないでしょうけど。

『週刊プレイボーイ』2018年9月25日発売号 禁・無断転

中央省庁が障がい者雇用を水増しするほんとうの理由 週刊プレイボーイ連載(352)

10年以上前のことですが、住民票が必要になって、自宅近くにある区役所の出張所を訪ねました。窓口の担当は右腕のない青年で、わたしが身分証明書類を持ち合わせていなかったため、本人確認のため個人情報を訊ねなければならない非礼を詫び、手際よく事務を処理してくれました。

出張所のフロアには20人ほどの職員が働いていましたが、障がい者は彼1人でした。書類が出来上がるのを待ちながら、わたしはふと疑問に思いました。世の中にこれほど障がい者に適した職場がありながら、なぜその場所を健常者が独占しているのだろう?

市場経済では、利益をあげなければ会社はつぶれてしまうのですから、どれほど社会貢献に熱心でもいずれは「効率性」の壁にぶつかります。しかしわたしたちの社会には、利潤の最大化を目指さずに働ける職場があります。それが、国家や自治体の「公務」です。

だとしたら、国防や警察・消防など一定以上の身体能力を必要とする業務を除いて、公的機関は全員が障がい者でもまったくかまわないのではないでしょうか。
こうしてわたしは、次のように書きました。

「厚労省は全国の社会福祉法人に対し、施設の建設費ばかりか職員の給与まで支給している。だが福祉に携わる公務員はもちろん、こうした社会福祉法人の職員もほとんどが健常者で占められている。なぜ彼らは障害者の職を奪うのか?

日本には300万人の身体障害者、50万人の知的障害者、200万人の精神障害者がいる。彼らが労働の喜びを知れば、日本の福祉は大きく向上するだろう。福祉施設や福祉関連団体に莫大な税金を投入する前に、80万人の国家公務員と300万人の地方公務員は自らの席を譲るべきだ」

わたしの多くの「極論」と同様に、この主張もまったく無視されてきました。誰からも相手にされないとがっかりしていたのですが、旗振り役である厚生労働省をはじめとして、中央省庁27機関が障がい者雇用を水増ししていたことが発覚し、じつはそうでもないことに気づきました。

水増し疑惑は地方自治体にも広がりつつあり、このままでは日本のほぼすべての公的機関が障がい者の数をごまかしていたことになりそうです。これは一部の組織のスキャンダルではなく、合理的な理由と断固たる意志がなければこんなことになるはずがありません。

報道では、「障がい者がうっとうしいと思われているからだ」などと解説しています。たしかに売上目標を達成しなければ減給や降格・解雇されてしまう職場では、「足手まとい」と扱われることはあるかもしれません。

しかしこれは、公的機関にはあてはまりません。公務員の仕事はお金を稼ぐことではなく、決められたルールにのっとって市民にサービスを提供することだからです。

そんな彼らが組織ぐるみで障がい者を雇用しないよう、全力をあげてきた理由はひとつしかありません。職場に障がい者が増え、彼らがふつうに仕事をしていることが市民の目に触れると、わたしと同じように、「なぜ健常者が彼らの仕事を奪っているのか」と疑問に思う人間が出てくるからです。

わたしのつたない文章を全国の公務員は正しく理解し、なりふりかまわず既得権を守ろうと頑張っていたようです。

参考:公務員は障害者に席を譲れ

『週刊プレイボーイ』2018年9月10日発売号 禁・無断転

「バカ」「死ね」に表現の自由はあるのか? 週刊プレイボーイ連載(351)

ネットセキュリティ会社の社員が、「低能先生」と呼ばれていた40代の男性に刺殺されるという衝撃的な事件が起きました。

報道によると、容疑者は国立大学を卒業したあと職を転々とし、3年前は福岡県のラーメン店で働いていたものの事件当時は無職でした。その学歴からわかるように、容疑者はけっして「低能」ではなく、ネットのコミュニティで他のユーザーを「低能」と誹謗中傷することからこのあだ名をつけられたようです。無職でも生活できたのは、おそらくは親の援助で暮らしていたからでしょう。

地元で最高の大学を卒業したものの社会生活がうまくいかず、ラーメン店を辞めた頃からアパートに引きこもるようになり、ひたすらネットの書き込みをつづけていたという姿が、ここからは浮かんできます。嫌がらせ投稿を理由に100回以上もアカウントを凍結されたにもかかわらず、新規IDで復活してはまた投稿を始めたことからも、その常軌を逸した執着心がわかります。

犯行の動機は、被害者が通報(ID凍結)を主導していた(と思い込んだ)ことへの逆恨みとされています。これは捜査の進展を待つほかありませんが、容疑者がなんらかの精神障がいを患っていた可能性も考えられます。いずれにせよ、部外者にはささいな諍いとしか思えないIDの凍結が、容疑者の歪んだ理屈では、死でもって償わせなければならないほどの重罪であったことは間違いありません。

アイデンティティは「自分らしさ」のことと思われていますが、これは正確ではなく、「社会的な私」の核心にあるものです。30~50人程度の小さな集団で狩猟採集生活をしていた旧石器時代には、共同体から排除されることは即、死を意味しました。徹底的に社会的な動物であるヒトにとって、「自己」は他人との関係のなかに埋め込まれているのです。

孤独であっても、あるいは孤独だからこそ、ひとは社会のなかで自分の居場所を求めます。その方法は千差万別ですが、プライドの高い容疑者にとっては、誰彼かまわず「低能」と罵ることだったのでしょう。

ところで、「バカ」「死ね」が自己実現のための唯一の表現だったとするならば、それを「表現の自由」として認めるべきでしょうか。

ネットでコミュニティサービスを提供する企業は、規約で発言削除やID凍結の権限を定めています。不適切な発言を通報するのは、ネットの言論空間を健全なものに保つために必要なことでしょう。しかし容疑者はそれで反省することはなく、ますます被害妄想を募らせていったようです。

アイデンティティ(社会的な私)を攻撃されると、ヒトの脳は身体的な暴力と同じ痛みを感じます。生命が危機に瀕すれば全力で抵抗しますから、いったんこの状態になるともはや理性は通用しません。ネットの共同体から排除されそうになった容疑者は、自分が集団でリンチされているかのように感じていたのではないでしょうか。

この事件ほど極端でなくても、ネットが社会の隅々にまで広がった現代には、そこにしか居場所のないひとが膨大にいそうです。彼らをどのように包摂すべきか、あるいは排除してもいいのか、私たちはようやくこの問題に気づいたところです。

『週刊プレイボーイ』2018年9月3日発売号 禁・無断転載