自己啓発の歴史(3) 「自己実現」という魔法の言葉

アメリカの心理学者アブラハム・マズローは良識ある理想主義者でヒューマニストだ。ひとことでいうと、とてもいいひとだった。

あちこち回り道をして28歳で心理学の博士号を取得したとき、マズローは学問の現状にものすごく不満だった。

当時の心理学は、精神分析と行動主義が対立していた。

フロイトが始めた精神分析では、ひとは無意識のなかに性的欲望を抑圧していて、それが神経症のようなこころの病の原因になる。有名なエディプスコンプレックス説では、男性は誰でも幼児期に母親との性的関係を欲望し、それが父親に禁止されることで去勢の恐怖に怯え、自我の葛藤が生じるとされた。しかしマズローは良識ある大人なので、「ひとのこころは性の欲望に支配されている」というフロイト理論を額面どおり受け入れることはできなかった。

20世紀初頭にワトソンやスキナーなどアメリカの心理学者によって提唱された行動主義は、心理学を「科学」にすることを目指した。彼らは、こころや意識といったブラックボックスはとりあえず脇に置き、刺激と反応のような客観的に観察可能な行動だけに焦点を当てたが、いかんせん当時の貧弱な研究環境では、イヌにヨダレを垂らさせたり(パブロフのイヌ)、ハトやネズミにボタンを押させる(スキナー箱)くらいのことしかできなかった。ヒューマニストのマズローは、当然のことながら、人間を刺激と反応に分解する行動主義にはぜんぜん満足できなかった。

そこでマズローは、精神分析と行動主義に代わる第三の心理学として、「人間性心理学」を提唱した。心理学はなによりも、愛情、創造性、価値、美、想像、倫理、喜びなどの「精神的本性」を解明するためのものでなくてはならず、過去をあら探しして抑圧された性の欲望をえぐり出したり、ハトやネズミに芸を教え込んだところで、こころの謎を解くことなどできなるはずはないのだ。

マズローは、1962年に刊行され大きな反響を呼んだ主著『完全なる人間―魂のめざすもの』で次のように宣言する。

  1.   ひとは誰しも、生物学に基づいた精神的本性を持っている。
  2.  その精神的本性は、人種や性別を問わず、人類に普遍的なものである。
  3.  精神的本性は、科学的に調べ、どのようなものか発見することができる。

これは現在の行動遺伝学や進化心理学にも通じる大胆で開明的な主張だ。しかし残念なことに、60年代には分子生物学も動物行動学も社会生物学もその萌芽だけで、広く知られてはいなかった。そこで良識ある理想主義者でヒューマニストのマズローは、自分の信念にぴったりの仮説を提案することにした。それは簡単にいうと、次のようなものだ。

ひとの精神的本性は「善」であり(すくなくとも必然的に「悪」ではなく)、生存のための基本的欲求が満たされれば、ひとはごく自然に善なる本性に向けて成長していく。

マズローは、人格形成の目標をきわめて簡明な言葉で表現した。その後半世紀にわたって私たちを呪縛しつづけ、これからも当分のあいだひとびとをとらえて放さないだろうその魔法の言葉が、“自己実現(self-actualization)”だ。