「イスラームと『イスラム国』は無関係」ってホント? 週刊プレイボーイ連載(183)

クリシェはフランス語で「常套句」「決まり文句」のことです。面倒な問題を考えたくないときや、複雑な話をわかりやすく説明したいときにクリシェは多用されます。誰もが直感的に「なるほど」と思いますが、どこか胡散臭いのがクリシェの特徴です。

ISIS(アイシス/「イスラム国」)の台頭とともにあらゆるメディアに頻繁に登場するようになったクリシェに、「イスラームは平和を愛する宗教で、『イスラム国』とはなんの関係もない」があります。

ISISの所業はきわめて残忍ですから、大多数の穏健なムスリムが「あんな奴らと一緒にされたくない」と憤るのは当然です。しかし「本人(信者)がちがうといっている」というだけでは、「だったらなぜ『イスラム国』なのか」という素朴な疑問にこたえることができません。

イスラーム社会ではウラマーと呼ばれる知識人(法学者)が大きな権威を持っています。ISISやアルカーイダの主張は、ムハンマドの言葉(クルアーン)を引用するウラマー(を名乗る者)によってインターネットで“布教”されています。それに感化されるのはムスリムの若者で、他の宗派や無宗教の人間にはまったく影響力がありません。

テロ組織に身を投じた欧州のムスリムの多くは、移民の中流家庭に生まれ、大学を卒業して仕事や家庭を持つ「同化」の成功例とされていました。最貧困層は生きるのに必死で、政治や宗教にかかわってなどいられません。「正義」について考えたり、アイデンティティで悩むのは、それができる経済的余裕があるからです。

ISISがいかに悪逆非道であっても、彼らは狂人の類ではなく、その行動はクルアーンやハディース(ムハンマドの言行録)、シャリーア(イスラーム法)を根拠に正当化されています。そこに一片の「真実」もないとしたら、欧米で高等教育を受けたムスリムの若者がISISに共感する事実を説明できません。

クルアーンでは、異教徒の侵略でイスラームが危機に瀕している場合、すべてのムスリムにジハード(聖戦)を実践する義務があるとします。7世紀のムハンマドにとってジハードは、生まれたばかりのウンマ(イスラーム共同体)を守るためぜったいに必要な教義でした。しかしその後、政敵を「反イスラーム」と名指ししてジハードを煽る者が続出したため、これはきわめて危険な教えになっていきます。そのため近代のイスラーム社会では、ジハードを命じることができるのは国家だけとされました。

しかしISISは、こうしたジハードの「近代的解釈」を拒否します。彼らにとって、国民国家や民主政はクルアーンに書かれていない異教徒の制度です。アラブの国の多くは部族の長が「国王」を名乗っていますが、ムハンマドは部族支配を打ち破るために剣を取りました。敬虔なムスリムの義務とは、偽りの「国家」からイスラームを救い出すことなのです。

現代のジハード論が欧米の植民地支配に対抗するなかから生まれたイスラームの正統な教えであることは、イスラーム思想のどんな入門書にも書いてあります。その事実を無視し、「イスラームと『イスラム国』は無関係」と繰り返すだけでは、ますますイスラームへの偏見を助長してしまうのです。

参考文献:池内恵『イスラーム国の衝撃』

『週刊プレイボーイ』2015年2月16日発売号
禁・無断転載

「自己責任」は自由の原理 週刊プレイボーイ連載(182)

2人の日本人がISIS(イスラム国)の人質となり、殺害された事件でまたも「自己責任」論が沸騰しました。

2004年4月のイラク人質事件では、過激派に拘束されたボランティア活動家などが現地の危険をじゅうぶん認識しておらず、被害者の一部家族が政府に自衛隊撤退を要求したことで、「自己責任」を問う激しいバッシングにさらされました。

しかし今回の事件では、2人ともISISの支配地域がきわめて危険だとわかったうえで渡航しており、ジャーナリストはビデオメッセージで「自己責任」を明言しています。「殺されたとしても誰のせいでもない」というひとを自己責任で批判してもなんの意味もありませんから、今回の騒動は「政府(安倍総理)に迷惑をかけるな」という心情的な反発なのでしょう。

人質事件に対し、政府は国民が許容する範囲で救出活動を行ないますが、それ以上のことはできません。

アメリカは「テロリストとは交渉せず」が原則ですから、人質は事実上見捨てられますが、それに対して国民からの批判はほとんどありません。テロリストに報酬を与えることは、新たな犯罪を誘発するだけだとされているからです。

それに対して日本では、国民の多くが国家に「日本人の生命を守る」ことを求めます。こうして政府は人質救出に奔走するわけですが、今後、人質事件が頻発するようなことになれば(考えたくはありませんが)「人命最優先」を再考せざるを得なくなるでしょう。

「人質救出は政府の義務」と決めつけるひとがいますが、「国民の生命を守るために軍事的な奪還以外の方法はとらない」という選択肢もあり得るのですから、一つの正義を絶対化するのは危険です。それ以上に危険なのは、「自己責任」そのものを否定するような主張です。

今回の事件で明らかなように、テロリストとの交渉には大きなコストがかかります。それにもかかわらず国家に一方的に責任を押しつければ、政府は国民が人質にとられるリスクを抑えるため、危険地域への渡航の自由を制限しようとするでしょう。

外務省は「海外安全ホームページ」において、旅行者や海外在住者に世界各国の危険情報を提供しています。もっとも危険なのは「退避を勧告します。渡航は延期してください」とされた地域で、シリア全土とイラクの大部分が含まれます。「自己責任」のない日本人の行動で政府の負担が増せば、まっさきにこうした地域への渡航が禁止されるでしょう。

日本人がほとんど問題なく旅行できるアジア地域でも、フィリピン、インドネシア、カンボジア、ラオスは全土が「十分注意してください」以上の危険度で、中国やタイも一部地域で危険情報が出ています。いったん規制が始まれば、これらの国・地域への渡航も許可制になるかもしれません。

私たちが自由な旅を楽しめるのは、「自分のことは自分で責任をとる」という当たり前の原則が国家とのあいだで共有されているからです。それを否定してしまえば、国家は私生活にまで無制限に介入し、旧ソ連や文化大革命下の中国のような専制的超管理社会で生きるしかなくなるでしょう。

「自己責任」は、自由の原理なのです。

『週刊プレイボーイ』2015年2月9日発売号
禁・無断転載

PS その後、シリアへの渡航を計画していたフリーカメラマンに対し外務省がパスポートの返納命令を出す事態になりました。すべてが「政府の責任」ならこうなるに決まっています。

「信仰」だけがなぜ特別扱いされるのか? 週刊プレイボーイ連載(181)

イスラームの創始者ムハンマドの風刺画をめぐって論争がつづいています。日本のメディアのあいだでも、「私はシャルリー」のカードを掲げて涙を流すムハンマドを描いた雑誌の表紙を掲載するかどうかで判断が分かれました。

掲載を控えたメディアは、「表現の自由は重要だが、紙面に載ればイスラーム信者が深く傷つく」などと説明しています。「他人の嫌がることはやらない方がいい」というのは一見わかりやすい理屈ですが、はたしてそれでいいのでしょうか。

日本には従軍慰安婦や南京大虐殺、靖国問題の報道で深く傷つき、激昂するひとがたくさんいます。それなら同じように、彼らの意に反する表現もすべて控えるべきだ――こんなことをいえば間違いなく袋叩きにあうでしょう。ジャーナリズムとは、権力や大衆の神経を逆なでしてもなお真実に迫る営為だとされているからです。

ではなぜ、ムスリムの気持ちには配慮し、愛国的な日本人の感情は踏みにじってもいいのでしょうか。

リベラルなひとたちは、彼らが歴史的事実を誤って解釈し、自分に都合のいい歴史観を振りかざしているからだというでしょう。その当否は別として、ここでいいたいのは、この論理には「(歴史認識とはちがい)神を信じるのは崇高な行為である」という暗黙の前提が隠されていることです。

しかし現実には、テロ行為を行なっているのはイスラームを名乗るグループで、彼らは自分たちこそがムハンマドの正統な後継者・カリフであると宣言しています。メディアには「テロリストとイスラームの教義にはなんの関係もない」との講釈があふれ、テロの原因は宗教ではなく「差別」と「貧困」だとされますが、恵まれない境遇にある多くのひとたちのなかで、なぜクルアーンのジハードに惹かれた若者だけがテロ組織に身を投じ、罪もないひとたちを殺戮するのか、納得のできる説明は聞いたことがありません。

誤解のないようにいっておくと、これは「イスラームが危険な宗教だ」ということではありません。旧約聖書では、神はユダヤの地に住む異教徒を殺しつくすよう命じています。中世の十字軍や魔女裁判からホロコーストに至るまで、キリスト教の歴史は血塗られています。

ひとが自らの行為を正当化するのは、正義が自分にあると信じるからです。絶対的な正義を与える神だけが、想像を絶するおぞましい行為を現実のものにすることができます。すなわち、すべての宗教が危険なのです。

日本でも、ムハンマドの風刺画を掲載した新聞社に対し、ムスリムの抗議行動が行なわれました。今回の事件は宗教というイデオロギーに対する風刺に端を発しているのですから、それを肯定するにせよ批判するにせよ、現物の風刺画を見なければ読者は判断のしようがありません。その意味で、「問題の判断材料を読者に提供する」との新聞社の判断は筋が通っています。

宗教だけが特権的に優遇されるのはその教えが「よきもの」だからではなく、信じているひとがものすごく多いからです。風刺画の掲載を自主規制したメディアは、要するに、面倒に巻き込まれるのがイヤだっただけです。

宗教の悪から目を背け、“善男善女”を傷つけることのない「よいこ新聞」のようなジャーナリズムでは、いま世界で起きていることを正しく伝えることはできないでしょう。

参考文献:リチャード・ドーキンス『神は妄想である』

『週刊プレイボーイ』2015年2月2日発売号
禁・無断転載

PS その後、風刺画を掲載し抗議を受けた新聞社が「イスラム教徒の方々を傷つけました。率直におわびいたします」との謝罪文を掲載しました。日本のマスメディアは、「私は傷つけられた」と文句をいうと表現の自由をあっさり放棄してくれるようです。