フィリピンPHOTOツアー

作家・橘玲(たちばなあきら)の公式サイトです。はじめての方は、最初にこちらの「ご挨拶」をご覧ください。

第70回 果てしなき意見調整の難しさ(橘玲の世界は損得勘定)


意見のちがうひと同士が折り合うのはむずかしい。「エスカレーターにどう乗るのが正しいか」という、ささいなことでもこれは同じだ。

かつては、エスカレーターは立って乗るもので、急ぐひとは階段を使うのがふつうだった。それが変わったのは(たぶん)1980年代半ばで、山手線の駅のエスカレーターで、外国人の男性に英語で熱心に話しかけている女性に向かって、「おばさん、みんな迷惑してるんだよ!」と怒鳴る男がいて、ものすごくびっくりしたのを覚えている。

このあたりから急速に、東京はエスカレーターの左に立って右側を空け、大阪は右に立って左側を空けるのが常識になった。

じつはこれは日本だけのことではなく、中東のイスラームの国でも、ロシアのような旧共産圏でも(あるいは、だからこそ)エスカレーターの片側を空けるのが当然になっている。そのため海外に行くと、真っ先に「右立ち」か「左立ち」かを確認する癖がついてしまった。

ところが最近になって、「エスカレーターは2列に並んでご利用下さい」という表示を見かけるようになった。「均等に体重がかかるように設計されているから」ともいうが、近所の家電量販店では、エスカレーターを駆け上がって子どもがケガをする事故があったかららしい。

そもそもデパートなどの商業施設では、慌てているひとはほとんどいないのだから、エスカレーターの片側はずっと空いたままだ。家族や友人同士で並んで立つようにすれば、バーゲンのときなどに無駄に行列をつくることもなくなるはずだ。

とはいえ、駅のエスカレーターでは電車の乗り継ぎなどで急いでいるひともいるから、優先ラインを空けておいてあげたほうが親切だろう。ということは、商業施設では並んで立ち、駅では片側に立てばいいのだろうか。

しかしこれは、さらなる混乱を招く可能性が高い。いちいち表示しないかぎり、歩道橋のエスカレーターのような紛らわしいケースでは、利用者はどちらのルールに従えばいいかわからなくなってしまうのだ。

そもそもエスカレーターは、利用者が歩くためのものではない。そのため最近では、“啓蒙”を目的に駅のエスカレーターに並んで立つひともいて、トラブルになることもあるようだ。急ぐほうにも事情があるのだから、鉄道会社も困惑するだろう。

そのためか、最近の商業施設では、エスカレーターの幅を狭くして1列でしか使えなくしたところも出てきた。どうせ利用者が片側立ちするなら輸送効率は同じだし、「エスカレーターの正しい乗り方」をめぐって口論が起きる心配もない。とはいえ、混雑する駅でこの方式を導入するのは難しいだろう。

ところでこの話のポイントは、エスカレーターの乗り方のようなことですら話し合いで意見のちがいを調整するのはきわめてむずかしく、物理的に強制する以外に有効な解決法はない、ということだ。だとすれば、宗教や民族、国家を理由にした意見のちがいがどうなるかは考えるまでもないだろう。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.70『日経ヴェリタス』2017年8月3日号掲載
禁・無断転載

カテゴリー: Column, 橘玲の世界は損得勘定 | 15件のコメント

イスラーム原理主義より深刻な問題は「若い男」? 週刊プレイボーイ連載(304)


ヨーロッパでもっとも人気のある観光地のひとつバルセロナで、観光客ら15人が死亡、120人あまりが負傷するイスラーム過激派のテロが起きました。その後の捜査で、世界遺産サグラダ・ファミリア教会の爆破を計画していたこともわかり、世界じゅうに衝撃が広がっています。

実行犯グループはモロッコ国籍などのムスリムの若い男性12人で、イスラーム原理主義のイマーム(指導者)に洗脳され、ガスボンベを使った爆弾を製造していたとされています。そのイマームが実験中の爆発事故で死亡したため、捜査の手が及ぶのを恐れ、観光客であふれる歩行者天国に車で突っ込む凶行に及んだのです。

繰り返されるテロは「イスラームの問題」とされ、それがムスリムの反発を招き、双方が憎みあう悪循環に陥っています。

この隘路を抜けるには、白人主流派がムスリム移民への「暗黙の差別」を理解するとともに、ムスリムの側もイスラームの教義に「自由で民主的な市民社会」に反するものがあることを認める必要がありますが、これはどちらもきわめて困難です。しかしそうなると、ヨーロッパ社会はこれからもテロに耐えつづけなければならず、移民排斥の主張が勢いを増すのは避けられないでしょう。

ところであまり指摘されませんが、繰り返されるテロの実行犯にはもうひとつ共通点があります。それは犯人のなかに高齢者や若い女性がいることは稀で、ほぼ全員が「若い」「男性」だということです。いま起きているのは、高度化する知識社会から大量の「若い男」が脱落していることなのです。

すでにこれはアメリカで大問題になっていて、さまざまな調査で小学校から大学まですべての学年において女子は男子より成績がよく、2011年には男子生徒のSAT(大学進学適性試験)は過去40年で最低になり、成績表の最低点の70%を男子が占めました。女子生徒が生徒会や優等生協会、部活動などに積極的に参加する一方で、多くの男子生徒は停学や留年によってドロップアウトしていきます。そしてOECD(経済開発協力機構)によれば、これはアメリカだけでなく世界的な傾向なのです。

だとすれば、これは同じひとつの現象が、国や文化によって異なる現われ方をしているだけなのかもしれません。

社会に適応できない若い男性が「ひきこもる」のは日本社会に特有の現象とされてきましたが、いまや欧米でもオンラインゲームやオンラインポルノに耽溺する若者が急増し、“hikikomori”は英語になりました。アメリカでは、ドロップアウトした黒人の若者はギャングスターに憧れ、下っ端のドラッグディーラーになって人生の大半を刑務所で過ごします。それに対してヨーロッパでは、移民の二世、三世の「アラー世代」の若者たちが社会のなかに居場所を見つけられず、「神」と「正義」の名の下にテロリストに変貌していくのです。

確実なのは、知識社会が高度化するにつれて、ドロップアウトする「若い男」がますます増えていくことです。そしてもうひとつ確かなのは、この問題にどう対処すればいいかだれも知らないことです。

参考文献:フィリップ・ジンバルドー、ニキータ・クーロン『男子劣化社会』(晶文社)

『週刊プレイボーイ』2017年9月4日発売号 禁・無断転載

カテゴリー: Column, そ、そうだったのか!? 真実のニッポン | 6件のコメント

トランプはリベラル? レイシスト? 週刊プレイボーイ連載(303)


アメリカ南部のバージニア州シャーロッツビルに「白人至上主義」団体が集結し、極右の若者が集会に反対するひとたちに車で突っ込んだことで、死者1名と多数の負傷者が出ました。事件のきっかけは、南北戦争で南軍の英雄だったロバート・リー将軍の銅像を市内の公園から撤去しようとする計画に白人の極右団体などが反発したことです。

2015年6月に南部サウスカロライナ州チャールストンの黒人教会で極右の青年が銃を乱射し9人が犠牲になった事件を機に、南部連合の軍旗やリー将軍の銅像などを「奴隷制の象徴」として撤去する動きが広がりました。一部の白人がそれに反対しているのですが、ややこしいのは、リー将軍自身は奴隷制に反対しており、南北戦争後はバージニア州のワシントン大学学長に就任して南部復興に尽力するなど、人格者として高く評価されていることです。極右とその周辺のひとたちにとっては、奴隷制に反対した人物を「奴隷制の象徴」にするのは、歴史の歪曲以外のなにものでもないのでしょう。

混乱に輪をかけたのは、トランプ大統領が「一方の集団は悪かったが、もう一方の集団もとても暴力的だった」などと、“喧嘩両成敗”のような発言を繰り返していることです。それを秘密結社クー・クラックス・クラン(KKK)の元指導者が「左翼のテロリストを非難した大統領の誠意と勇気に感謝する」と歓迎したことで、人種差別とのはげしい非難にさらされることになりました。

しかしこのことから、トランプを「レイシスト」と短絡することはできません。白人至上主義者のなかにはネオナチに心酔する者もたくさんいますが、周知のようにトランプの娘婿はユダヤ人で、政権の中枢で重要な役割を果たしているからです。

トランプの過激な発言を追っていくと、たしかにヒスパニックの「不法移民」に対しては排外的な主張をしているものの、市民権を持つヒスパニックを批判することはありません。キリスト教原理主義にちかい共和党右派は中絶に反対し、同性愛を神への冒瀆と考え、黒人に対するアファーマティブ・アクション(マイノリティへの優遇措置)を否定しますが、大統領就任後もトランプは女性やLGBT、黒人を敵に回すような言動は慎重に避けています。客観的に見れば、その政治理念は共和党の大半の議員よりずっと“リベラル”なのです。

こうした態度は、トランプが政治をビジネスと考えているとすると、きわめて容易に理解できます。

再選を目指す大統領にとって、投票権をもつ者はすべて「潜在顧客」です。それに対して「不法移民」や「(外国の)イスラーム」「中国(あるいはEUや日本)」は市民権をもっていないので、いくら批判してもかまわないのです。

シャーロッツビルの事件後の対応も、同じ論理で説明できます。

白人至上主義者はトランプ支持者の中核、いわばリピーター(優良顧客)です。どのような商売もリピーターを大事にしなければ立ち行きませんし、「右翼」を批判したところで「左翼」は態度を変えようとは思わないでしょう。だとすれば、ビジネスの論理によって、どれほど批判されようともトランプが「レイシズム」を擁護するのは当然なのです。

『週刊プレイボーイ』2017年8月28日発売号 禁・無断転載

カテゴリー: Column, そ、そうだったのか!? 真実のニッポン | 2件のコメント

小池都知事の「保守」VS「保守」戦略は自民党支配を終わらせるか? 週刊プレイボーイ連載(302)


小池百合子東京都知事の側近が「日本ファーストの会」を立ち上げました。党名についてはトランプの「アメリカ・ファースト」とかんぜんにかぶるため批判もあるようですが、そもそも「都民ファースト」が共和党の大統領予備選で躍進するトランプの選挙スローガンから取られたのですから規定の路線ともいえます。

当初は「国民ファースト」を考えていたものの、同名の政治団体がすでに存在することで混乱を回避したともいわれています。しかし「国民ファースト」はフランスで“極右”とされるFN(国民戦線)のスローガンで、移民排斥のイメージとつよく結びついていますから、どっちもどっちでしょう。

自民党を離党して都知事となり、自らの新党を立ち上げた小池氏が、橋下徹前大阪市長の政治手法を徹底的に研究していることは明らかです。その橋下氏は、大阪で圧倒的な支持を得ていたものの、国政進出にあたって石原慎太郎氏の太陽の党と合流し、共同代表制に移行したことで混乱を招きました。橋下氏が大阪の首長の座を離れることができず、国政を任せる「代理人」がどうしても必要だったからですが、「ネオリベ(新自由主義)」の維新の会と「愛国保守」の太陽の党ではあまりに肌合いがちがい、その後の内部抗争と分裂は必然でした。

日本ファーストの会も、まったく同じ問題を抱えています。代表は無名の国会議員で、今後、民進党を離党した大物議員などが加わればたちまち埋没してしまうでしょう。都知事の任期は2020年7月までで、次期衆院選は遅くとも来年末には行なわれますから、それまでに小池氏が首相の座をうかがう国政政党の党首になれるかどうかが第一の課題です。

私にはこの隘路をどうやってくぐり抜けるか想像できませんが、もし小池氏の下で総選挙に挑むことができれば、「日本ファースト」は前回の都議選と同じ状況をつくりだす可能性があります。

安倍政権の賞味期限はそろそろ切れかけており、有権者は「新しい風」を求めています。しかし民進党は、「保守」対「リベラル」の構図に拘泥し、より左の共産党との共闘を模索した結果、党内の保守系議員の離反を招いて解党の危機に陥りました。それに比べて「日本ファースト」は、そのあやうい党名からもわかるように、自民党の右に位置を取り、「保守」対「保守」の争いにもちこむことが可能です。そうなるとリベラル層は行き場を失いますが、共産党に流れるのはごく一部で、ふたつの保守政党から「よりマシな方」を選ぶほかないでしょう。戦後日本政治の自民党支配を終わらせるには、おそらくこの戦略しかありません。

トランプのポピュリズムから選挙に勝つ方法を学んだ小池氏は、最近は自らをマクロン仏大統領になぞらえているようです。フランス大統領選では既成政党は右も左も大きく票を減らし、与党・社会党は壊滅的な敗北を喫しました。この世界的潮流が日本にも及んでいることを見すえているとしたら、新たな「政治的トリックスター」の行動から目を離すことはできません。

『週刊プレイボーイ』2017年8月21日発売号 禁・無断転載

カテゴリー: Column, そ、そうだったのか!? 真実のニッポン | 10件のコメント

ジュディス・リッチ・ハリス『子育ての大誤解〔新版〕』訳者あとがき


ジュディス・リッチ・ハリス『子育ての大誤解〔新版〕』の翻訳者・石田理恵さんの「訳者あとがき」を、出版社の許可を得て掲載します。

***********************************************************************

2016年、『言ってはいけない──残酷すぎる真実』(新潮新書)が出版された。著者は橘玲氏。2017年新書大賞を受賞したこの本の帯には“遺伝、見た目、教育に関わる「不愉快な現実」”とある。なんとも刺激的なタイトル、そして帯に記載された黄色い警告マークに目を見張った。本を開いてさらに驚いた。「ジュディス・リッチ・ハリス」という名前とともに、本書『子育ての大誤解』が2章にもわたって取り上げられているではないか。『子育ての大誤解』は2000年、すなわち17年前に翻訳出版された本である。当時幼稚園児だった子どもが成人し、社会人になっている、それだけの時間が経過した今、なぜ、と驚いたのだ。

原書The Nurture Assumptionは1998年9月に出版され、その年のピュリッツァー賞の候補に名を連ねた。出版前後より大きな反響をよび、「親の役割は果たしてそれほど重要なのか?」という見出しで、アメリカのみならず、イギリスやドイツの雑誌・テレビ番組でも取り上げられた。

ただ、その大反響は賛否両論がはっきりと分かれるものだった。とりわけ発達心理学や児童発達の専門家たちの意見はかなり厳しかった。1995年に《サイコロジカル・レヴュー》に掲載され本書の元となった論文は、APA(アメリカ心理学会)から優秀な論文に贈られるジョージ・A・ミラー賞を受賞しているが、その選考に携わったテンプル大学のフランク・ファーレーですら「著者の結論は限られたデータを元にしており、早合点かつ危険である」と述べている。「彼女の理論は従来の常識を覆すかのように見えるが、もし親がこれを真に受けたらどうなるのか。“さほど影響がないから”と子どもを虐待することに抵抗を感じなくなる親が出てくるかもしれないし、長い一日で疲れ切った親が“さほど影響がないから”と子どもをネグレクトするかもしれない」と彼は危惧している。

このような批判の一方で絶賛する者もいた。本書に序文を寄せた進化心理学の世界的権威スティーヴン・ピンカーはその一人だ。本書は心理学史の転換点となるだろうと評した彼は、親はさほど重要ではないという証拠は実際に存在するとし、「それらが存在しないふりをするのはそれらがあまりにショッキングだからだ」と喝破した。また本書でたびたび登場する心理学者デイヴィッド・リッケンは、「本書は何百人もの発達心理学者を不安に陥れるだろう」と語り、実際「誕生からの数年間で成人後の性格が形成されるという明確な証拠を探し求めても(心理学者たちは)それを呈示することはできない。なぜならそのような事実は存在しないのだから」と断言している。教育プログラムを助成するジェイムズ・S・マクドネル財団のジョン・ブリュアー会長(当時)は「幼少時の親子関係が決定的かつ長期的な影響を及ぼすという思いこみを考え直すことが必要だったのだ」とハリスの功績を称えた。

意外な感もあるが、著者のもとには男性読者からの反応もかなり寄せられたという。子どもにかかわりがある職業に就いている人からのものが多く、基本的に著者の考えに賛同しながらも、極端すぎるなどの批判もまじえて自らの考えを展開しているものが大半を占めていた。一方、女性読者からは、主に自分の子育て経験に照らして「まさにそのとおり」「よくぞ言ってくれました」との声が多く、これまでどんな育児書を読んでも納得できなかった部分がようやく理解できるようになったという一種の爽快感を書き綴ったものばかりだったという。

専門家や読者の反応がこんなにも分かれたのは、「育児を画一的にとらえることはできない」ことを意味しているのかもしれない。子どもは、一定の手順を踏めば完璧な作品が出来上がるプラモデルのようなものではない。だからこそ、それぞれに性格も違ってくるし、それが個性にもなる。成長のスピードや人格形成の時期も異なる。しかし、そのばらつきこそが、親を悩ませる。

では、それから約20年を経て、子育て事情は変わったのだろうか。新版まえがきによれば、2008年時点では「あまり変わってはいない」。ハリスはそう述べている。「子育てを少しでも楽にしたい、親の子育てストレスを軽減したい、私はそう願ってきた」、しかし「残念ながらまだそこには至っていない」と。それは2017年の日本でも同じだ。

相変わらずなくならない幼児虐待や少年犯罪、いじめの低年齢化、「小一プロブレム」、習い事で忙しすぎる子どもたちなど、状況は改善されていない。唯一変わったことといえば、保育園事情だ。約20年前は、「三歳までは母の手で」という三歳児神話に縛られ、働く母親は後ろ髪を引かれる思いで子どもを保育園に預けていた。それが今では、待機児童の増加が社会問題にまでなっている。しかし保育園だろうが幼稚園だろうが、はたまた小学校だろうが、親はわが子が最初に出会う社会でどう受け入れられるかに過剰なまでに神経を尖らせる。それが自分の評価につながると思いこんでしまうのかもしれない。

幼い子どもが何人か揃うと、当然のことながらそれぞれに容姿も性格も違う。言葉の早い子もいれば遅い子もいる。進んで子どもの輪の中に入る子もいれば、いつまでも母親から離れない子もいる。すぐ叩く子もいれば叩かれて泣いてばかりの子もいる。自分の子が劣っていると感じてしまった母親は「なぜうちの子はよその子のように明るくのびのびふるまえないのか」と思い悩む。その結果、少しでも自信が持てるように、得意分野を身に着けさせようと、様々な習い事を勧め、入園入学を控えた新年度が近づけば、子どもに対して新たに始まる集団生活のノウハウを手取り足取り教えようとする。結果、最近では母親の五月病という症状さえ見られるという。

だが本来、人間はそれぞれ違うものである。その違いが親の育て方によって生じたものであるとは限らない。育児書や雑誌の指示どおりに育てたとしても、実際に同じ結果は得られない。同じ月齢、同じ年齢の子どもでも差があるのは当然なのだ。たとえば、幸い保育園入園を果たした親子の中にもいつまでも母親から離れようとしない子どもがいる。お迎えに行っても子どもはいつも一人で遊んでいる。快活な子と比べたとき、さぞかし親は気をもむことだろう。しかしその子は逆に観察力を養っているのかもしれない。家に帰れば仲間がやっていた遊びや歌を延々と披露してくれたりする。一見マイナスに思えることも、実は新しい能力を伸ばすことに役立っているのかもしれないのだ。親はよそと同じように子どもを育てたつもりでも、目の前にいる子どもたちはまさに十人十色であり、どういう面が伸びているのかも、それが伸びるスピードも、よその子どもたちと違って当然なのだ。だからこそ子育ては難しく、奥が深い。

著者は本書で次のように語っている。「子どもには愛情が必要だからと子どもを愛するの ではなくて、いとおしいから愛するのだ。彼らとともに過ごせることを楽しもう。自分が教えられることを教えてあげればいいのだ。気を楽にもって。彼らがどう育つかは、あなたの育て方を反映したものではない。彼らを完璧な人間に育て上げることもできなければ、堕落させることもできない。それはあなたが決めることではない」。本書が、子育てに悩む多くの方々に、新しい視点を提示し、子どもとの関係を見直すきっかけになれば幸いである。

*

最後になりましたが、自著で本書を大変詳しく取り上げてくださり、またご自身の経験に基づくユーモアを交えたおもしろくわかりやすい解説を書いてくださった橘玲氏に深く感謝申し上げます。また、単行本出版時に私の拙い訳文を丁寧に検討し、さまざまな貴重なアドバイスをいただいた早川書房編集部の小都一郎氏、校閲課の山岸荘二郎氏、さらに、文庫化にあたり、限られた時間にもかかわらず、原稿を細かく見直し、丁寧に手を加えてくださった一ノ瀬翔太氏、内山暁子氏、校正者の土肥直子氏に心からお礼を申し上げます。

2017年7月  石田理恵

『子育ての大誤解〔新版〕』(早川書房) 禁・無断転載

 

カテゴリー: お知らせ | コメントする