第37回 シンガポールの芝は青く見える(橘玲の世界は損得勘定)

シンガポールに注目が集まっている。日本の富裕層やベンチャー起業家たちが、続々とこの小さな国を目指しているのだという。一人あたりGDPが日本を抜いてアジアでもっともゆたかになったことで、「シンガポールを見習うべきだ」という論調もしばしば目にする。

シンガポールの大胆な経済政策には参考になるものも多いが、どう頑張っても日本はシンガポールにはなれない。国としての条件があまりにも違いすぎるからだ。

シンガポールは香港と並ぶアジアのタックスヘイヴンとして、グローバル金融機関の誘致に成功した。それを可能にしたのは、国内に主要産業がなく、税率の引き下げで失うものよりも、海外からの資本移転で得るものの方が大きいからだ。欧米や日本のような大規模で複雑な経済ではそうはいかない。

金融はITと並ぶ知識産業で、製造業やサービス業より賃金がずっと高い。金融が主要産業になれば高収入のひとが集まってくるから、一人あたりGDPが高くなるのは当たり前だ。このことは、世界でもっともゆたかな国がヨーロッパのタックスヘイヴン、ルクセンブルクだということからもわかる。

ルクセンブルクの知人に「この国はみんな金持ちでいいね」といったら、彼は笑いながら「リストラされたら暮らしていけないから、貧乏人が出て行って平均年収が高くなるんだ」と教えてくれた。

シンガポールのもうひとつの特徴は、食糧やエネルギーをすべて近隣諸国に依存していることだ。農業部門を持たないから都市と農村の経済格差もないし、政治的な利害対立も起きない。そのかわり生殺与奪の権を他国に握られて、安全保障は不安定になる。

シンガポールは富裕層に最適化された都市国家で、教育水準も医療水準もきわめて高い。アジアでもっとも暮らしやすい国のひとつであることは間違いないが、それでもシンガポール人と話をすると、みんな「日本はいいよね」と口をそろえる。

シンガポール人の不満のひとつは、国が狭すぎることだ。人口は540万人と東京の半分ほどだが、島の中央部は熱帯雨林で、山手線の内側ほどの場所にひしめきあって暮らしている。

もうひとつの不満は、暑すぎることだ。赤道に近いからどうしようもないのだが、1年じゅう高温多湿で、サウナのような屋外と冷蔵庫の中のような屋内を出入りすることになる。春の桜や秋の紅葉、冬の雪景色に憧れる気持ちはよくわかる。

シンガポールでは、寿司や鉄板焼きからラーメンまで日本食が大ブームで、本場の味が安く食べられるというのも日本観光の大きな魅力になっている。

シンガポールは「明るい独裁国家」ともいわれるが、政治についての不満は聞いたことがない。私が外国人だからかもしれないが、うまくいっているうちは文句をいう理由もないのだろう(最近は移民問題で抗議集会が開かれるようになった)。

隣の芝はいつだって青く見えるのだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.37:『日経ヴェリタス』2013年11月10日号掲載
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