たったひとつの正しい主張ではなく、たくさんの風変わりな意見を

新刊『不愉快なことには理由がある』のINTRODUCTION「たったひとつの正しい主張ではなく、たくさんの風変わりな意見を」を掲載します。

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本書では、政治や経済、社会的事件など、私たちのまわりで起きるさまざまな出来事について日々考えたことを綴っていますが、正しい主張が書かれているわけではありません。

いきなりの暴言で驚かれたかもしれませんが、その理由は3つあります。

ひとつは、私が、それぞれの問題についてはただの素人だということ。日本には、政治学や経済学、社会学などの優れた専門家がたくさんいます。彼らと同じ学問的レベルで“正しい”論述をするのは、そもそも素人には不可能です。

ふたつめは、多くの社会問題でなにが正しいのかわからないこと。これは、私たちの世界が不確実で、未来を誰も予想できないからです。複雑で緊密な小さな世界(スモールワールド)の話は次章でしますが、難しい説明がなくても、3・11の前は専門家の大半が原発の絶対安全を信じていたことを思い起こせばじゅうぶんでしょう。専門家が間違っているのなら、専門レベルの正しさを妄信することは破滅への道です。

3つめは、問題には必ず解があるわけではないこと。あるいは、解があってもそれが実現不可能な場合があること。尖閣や竹島は日中・日韓の「問題」ですが、主権国家の集合体である近代世界は領土問題を解決する方法を持っていません。

こうした「不愉快な真実」は、あたりを見回せばいくらでも見つかります。

世界には、1日1.25ドル(100円)未満で暮らす貧困層が12億人(途上国人口の22%)もいます。世界の貧困人口は経済のグローバル化によって大きく減少しましたが、それでも先進国と途上国の「経済格差」は道徳的に容認し得ないものがあります。

理論的には、こうした貧困問題を解決するのは簡単です。アメリカやヨーロッパ、日本などのゆたかな国が国境を開放し、無制限に移民を受け入れるなら、貧困に苦しむ多くのひとたちが所得を得る機会を手に入れ、2世代か3世代経つ頃には、世界の貧困はなくならないにしても劇的に改善していることでしょう。

もちろんほとんどのひとは、こうした“正解”を荒唐無稽なものとして一笑に付すでしょう。そして不愉快な問題から目をそむけるか、あるいは経済援助や債務帳消しのような、より簡便で気分のいい解決策に飛びつくのです。

「中央銀行がマネーを大量に供給すれば不況はたちまち終わる」とか、「国家がすべてのひとに生活最低保障すれば貧困問題は解決する」とか、「太陽光発電や風力発電で原発をゼロにできる」とか、さまざまな“一発逆転”のアイデアが出されています。その一方でこれを真っ向から否定する専門家も多く、学問的な論争は見苦しい罵り合いと化しています。

政策的に重要で、専門家のあいだで合意が成立しない問題は、民主制(デモクラシー)社会では最後は素人が選択するしかありません。

幸いなことに、いまでは素人の集合知が少数の専門家の判断よりも正しいことがわかっています。この不思議な現象は、アメリカのジャーナリスト、ジェームズ・スロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい 』で広く知られることになりました。

集合知の仕組みはいまだ完全に解明されたわけではありませんが、ウシの体重を予想したり、ビンの中の飴玉の数を当てたりする場合は、不特定多数のなかから誰が真の専門家なのかを発見する機能があるからだとされています。素人は無知なので回答の数字が極端に大きかったり小さかったりしますが、参加者の数がじゅうぶんに多ければこれらの誤答は相殺されて正解へと収斂していくのです。

株式投資の銘柄予想でも素人の集合知が有効なことがわかっていますが、こちらはウシの体重や飴玉の数とはちがって不確実な未来を予測する問題です。

素人の予想が専門家を上回るのは、知っている会社(有名ブランド)にしか投資しないからだと考えられます。株価を予想したひとたちは、投資についてはど素人かもしれませんが、消費者としては圧倒的多数派です。彼ら/彼女たちは、スマホを買うときにそれぞれのメーカーの仕様やスペックを詳細に検討したりなどせず、みんなが持っているというだけでアイフォンを選び、休日に友だちと待ち合わせるときは説明が不要な「駅前のスタバ」にするでしょう。このようにして消費者は強いブランドに集まり、その会社の利益と株価を押し上げるのです。(ゲルト・ギーゲレンツァー『なぜ直感の方が上手くいくのか?』)。

いずれの場合でも、集合知を有効に活かすためには、バイアス(歪み)のない多様な意見が重用です。その一方で、独裁者が理想を追い求めたり、大衆が感情に流されて“最終解決”に飛びつくと、戦争や内乱、虐殺のようなとてつもなくヒドいことが起きることを20世紀の歴史は教えてくれます。だとすれば真に必要なのは、たったひとつの正しい主張ではなく、たくさんの風変わりな意見なのです。

生態系の維持に生物多様性が重要なように、社会の安定にも意見の多様性が不可欠です。

19世紀イギリスの自由主義思想家、ジョン・スチュワート・ミルはこのことに気づいていて、「真理に到達するもっともよい方法は、異なる意見を持つ者の話を聞くことだ」といいました。そればかりか、誰ひとりあなたの意見を批判する者がいない場合は、「自分自身で自分の意見を批判せよ」とまで述べています。

しかしだからといって、いい加減な思いつきを並べても読者は混乱するばかりでしょう。そこで本書では、日本社会や日本人を論じる際にひとつの基準(というか視点)を採用しています。それが、進化論です。

なぜ社会批評に進化論が出てくるのか、不思議に思うかもしれません。そんなひとのためにプロローグで、現代の進化論(進化心理学や進化生物学)が脳科学や遺伝学の研究成果によって急速に発展し、ゲーム理論や行動経済学などの社会科学と融合して、人間と社会の謎を解明する統一的な理論を構築するという、巨大な知のパラダイム転換が起きていることを概観します。本書のアイデアは、こうした知見を政治や経済、社会の出来事に適用して、マスメディア(ワイドショー)とは異なる視点を提供しようというものです。

ところでここで、ふたたび最初の疑問が頭をもたげてくるかもしれません。日本には、進化心理学や脳科学、行動経済学やゲーム理論などの優れた専門家がたくさんいます。だったら、そのひとたちに任せればいいではないか……。

しかし現実には、こうした専門家が議論の沸騰する問題に口を出すことはきわめて稀です。研究の妨げになることはもちろん、専門家は自らの専門分野で間違えることが許されず、専門分野以外への口出しがルール違反(領域侵犯)とされているからでしょう。このようにして、専門が細分化されていくにつれて、優秀なひとほど社会問題についての発言を控えるようになっていきます。

現代では、理系・文系を問わずあらゆる学問で複雑・高度な知の体系が構築されていますから、そのすべてに通暁することは誰にとっても不可能です。人間や社会について学際的に発言しようと思ったら、程度の差はあれ、生半可な知識に頼るほかはありません。「地雷を踏む(@小田嶋隆)」ような社会批評は、“素人”以外にはできなくなっているのです。

読者のなかには、こうした説明を開き直りとか、いい加減と思う方もいるでしょう。その場合は、どうぞ書店の棚に戻してください(お時間をとらせて申し訳ありませんでした)。もしまだ興味があれば、プロローグで本書のフレームワークを示しているので、そこからお読みいただくと、なぜこんな奇妙な主張をするのかがおわかりいただけると思います(「進化心理学のことなんて知っているよ」という方は、そのままPART1にお進みください)。

近代文明は驚くほどの進歩を遂げたので、解決できる問題のあらかたは解決されてしまいました。だとすればいま残っているのは、問題の解決が新たな問題を生むようなやっかいなものばかりでしょう。不愉快なことには、すべて理由があるのです。

そんな世界をすこしでも生きやすい場所にするために、「みんなと違う視点を提供して意見の多様性に貢献する」という本書の目的が上手くいっているかどうか、ご判断いただければ幸いです。