第20回 厳寒の夜 自販機になぜ並ぶ (橘玲の世界は損得勘定)

その不思議な自販機に気づいたのは、何年か前の冬のことだった。その頃はちょっと忙しくて、仕事場を出て自宅に歩いて戻るのは毎夜、日付が変わってからだった。

いまにも雪が降り出しそうな寒い夜に、若い男性がその自販機でコーヒーを買っていた。次の夜は、カップルが自販機の前でなにを飲もうか相談していた。そのときまではとくに変わったことには気づかなかったが、翌日は鈍感な私でもさすがになにかが変だと思った。

深夜1時過ぎに、自転車に乗った男性が、自販機の前でポケットから財布を出していた。そこに丹前を羽織った若者がやってきて、足踏みしながら順番を待っていたのだ。

私はたまたまその若者と帰る方向が同じになったのだが、学生寮らしきアパートに戻るまでに自販機が2カ所あった。彼はなぜ、こんな寒いなか、わざわざ遠くの自販機まで飲み物を買いにいったのだろう。

最初は、缶コーヒーの味に好みがあるのだろうと思った。だがそれだけでは、特定の自販機に人気が集中する理由はわからない。そこでもういちど戻って、その不思議な自販機を観察してみた。

道路を渡った反対側にも別の飲料会社の自販機が置かれていて、両方を比べると秘密はすぐにわかった。商品の構成はほとんど同じだが、一方は缶コーヒーが120円、不思議な自販機は100円だったのだ。私が見たのは、20円を節約するためにやって来たひとたちだった。

私は、この行動をおかしいとは思わない。寒い冬の夜に買い物に行く最大のハードルは、コートを着て玄関を出るまでだ。いったん歩きはじめれば、目の前の自販機も3つ先の自販機もたいした違いはない。恋人同士なら、震える肩を抱きながら夜の街を歩くのも楽しいだろう。

それ以降、誰かが自販機を使っていると、つい値段を調べたくなった。それまでまったく気づかなかったが、夜中にわざわざ買いに来るのはたいていは100円自販機だった。

この話を思い出したのは、苦境に陥ったシャープの記事を読んだからだ。主力の液晶パネルの不振で昨年度3760億円の赤字を計上したシャープは今年度も2500億円の赤字を見込み、大規模なリストラや資産売却に追い込まれ、台湾企業との資本提携を模索している。

シャープは亀山工場で、“匠の技”による「美しい日本の液晶」を生産していた。だがひとはわずか20円のために、凍える夜を歩くことすらいとわない。

ブランドものの缶コーヒーはたしかに美味しいだろうが、全体の品質が向上すれば相対的な優位性は失われていく。ヒトの脳は視覚を自動補正する機能を持っていて、ほとんどの消費者はわずかな画面の質にこだわったりはしない。新興国メーカーの台頭で液晶の価格が下落するなか、「美しい日本」に呪縛されたシャープは事業転換の機会を見失ってしまった。

気がつけば、匠の技に追加料金を払う消費者はどこにもいなかったのだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.20:『日経ヴェリタス』2012年9月16日号掲載
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