来るべき時代の衝撃に備えて、国家と個人のリスクを切り離せ(『週刊ダイヤモンド』2011/10/08号)

『週刊ダイヤモンド』2011/10/08号に掲載された「来るべき時代の衝撃に備えて、国家と個人のリスクを切り離せ」を編集部の許可を得てアップします。

アテネの話については、下記のエントリーもあわせてご参照ください。

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国家が破産したら、私たちの人生はどのように変わるのだろう。それを知りたくて、昨年の暮れに財政破綻の街アテネを訪れた。

バスや地下鉄など公共交通機関は、ストライキですべて止まっていた。どこも大渋滞で、繁華街の道路にはタクシーに相乗りしようとするひとたちが溢れていた。

国会議事堂前の広場にはデモ隊が集結していた。そのなかに、黒の目だし帽や防毒マスク姿の「黒覆面団」と呼ばれる過激派の学生たちがいる。デモはいたって平和的に行なわれるが、それだけではインパクトがないので、彼らが外国の報道機関のために、警官隊に向かって火炎瓶を投げたり、ゴミ箱に火をつけたりするパフォーマンスを行なうのだ。

とはいえ、アテネの日常はテレビカメラには映し出されないところにあった。

国会議事堂広場のすぐ隣にある高級ホテルでは、正装した男女がシャンパングラスを傾けていた。アクロポリスの丘には夕陽を眺める恋人たちが集まり、皮を剥がれたトリやブタが所狭しと並ぶ中央市場は夕食の支度を急ぐ主婦でごった返していた。

だが繁華街からすこし離れると、街の風景は一変する。

アテネ工科大学の周辺はジャンキー(薬物中毒者)の溜まり場で、うつろな目をした男たちが昼間から夢遊病者のように徘徊していた。道端でエビのように身体をまるめ、小便を漏らしながら、注射器を手に化石のように動かなくなった男がいる。

国の経済危機は、内乱や戦争のようにすべてのひとを極限状況に追いやるわけではない。財政が破綻しても、ほとんどのひとは(これまでより貧乏になるかもしれないが)なんとか生きていけるだろう。資産の大半を国外で運用している富裕層のように、なんの影響も受けないひとたちもいる。

しかしその一方で、失業率の上昇や年金など社会保障費の削減、高率のインフレは経済的弱者を直撃する。国家の経済的な破綻は、格差の拡大というかたちで現実化するのだ。

 国家の破産で確実に起きる高金利・円安・インフレ

民主政治(デモクラシー)では落選した政治家は無価値だから、彼らの最大の関心事は選挙に有利な政策をアピールすることだ。どのような高邁な理想も、権力を握らなければなにひとつ実現できないのだから、原理的に、すべての政治家はこの罠から逃れられない。

官僚制の本質は、それぞれの省庁や部門が予算と権限をめぐって争うことだ。これはピラミッド型組織の宿命で、権限がなくなればポストは減らされ、組織からはじき出されてしまう。どれほどの憂国の士でも、自分と家族の生活を守らなければならないのだから、縄張り争いに勝ち残るため必死になるほかはない。

合理的な政治家や官僚にとって、もっとも好都合なのは国家の財政規模が拡大していくことだ。予算が増えれば官僚の権限(パイ)は大きくなり、省庁間や省庁内の抗争は緩和される。政治家はその予算を選挙区に還元することで、次の選挙を有利にたたかうことができる。このメカニズムは万国共通で、その結果、民主政国家では国債の発行がとめどもなく膨らんでいく。

この仕組みにはじめて気づいたのは経済学者のジェームズ・ブキャナンで、彼は政治家も官僚も国民も自分がいちばん大事なのだから、憲法で負債の上限を制限する以外、財政爆発を防ぐ方法はないと考えた。

民主党はかつて、予算の組み換えと行政改革で20.5兆円の財源を確保すると高らかにうたったが、それはいつのまにかどこかにいってしまった。マニュフェストには「国家公務員の総人件費2割削減」が掲げられているが、最近は話題にすらならない。東日本大震災の復興には、原発事故の賠償費用を除いても約16兆円の財源が必要とされているが、増税案にはさっそく民主党内からはげしい反発が起きている。

こうして、「財政健全化」を叫びながら、税収が国家の歳出の6割強しかないという異常事態が当たり前になってしまった。当然のことながら、こんなことがいつまでも続けられるはずはない。

東日本大震災で目にした日常基盤の突然の喪失

経済大国のドイツと発展途上国のギリシアが共通通貨を使うことの矛盾は、ユーロ誕生のときから指摘されてきた。しかし経済学者の警告にもかかわらずユーロの信任は世界金融危機まで維持され、それ以降もECB(ヨーロッパ中央銀行)の懸命の努力でギリシアのデフォルトやユーロ脱退は回避されている。

このように、理論的には確実に起こるとわかっていても、それがいつどのようなかたちで現実化するかを予想することはきわめて難しい。

日本の財政危機もこれと同じで、無限に借金をすることができないとしても、その限界が10年後なのか、5年後なのか、それとも明日なのかは誰にもわからない。

「国家破産」にはもうひとつ、それが起きたらどうなるかが正確に予測できるという特徴がある。

日本国の財政が破綻したら、理論的に、以下の3つの経済事象が発生する(これ以外のことは起きない)。

  1. 国債価格の暴落にともなう金利の大幅な上昇。
  2. 通貨が信任を失うことによる円安。
  3. 高金利と円安が引き起こす高率のインフレ。

すなわち「国家破産」後の日本は、「低金利・円高・デフレ」の現在とまったく逆の世界になるのだ。

もっとも、このすべてが同時に起きるわけではない。

最初の徴候は、国債価格が下落して金利が上昇することだ。これは財政破綻の定義で、低金利のまま円安になったり、物価が上昇したりしても、景気の回復や国の債務の減少につながるから財政破綻の引金が引かれることはない。

さらに、金利が上昇しはじめてもすぐにインフレや円安が起こるわけではない。為替市場では逆に、高金利で海外からの円買いが進み、短期的にはさらなる円高になる可能性もある。

国債価格が暴落すれば、膨大な国債を保有する金融機関は時価評価で大幅な債務超過になってしまう。本格的な円安やインフレは、この壊滅的な金融危機の後にやってくるだろう。

財政破綻に備えるには、これらの経済事象に対してあらかじめ適切な保険をかけておけばいい。国債先物を売ったり、商品指数ETFを購入したり、銀行株を空売りしたり、さまざまな方法があるだろうが、もっとも簡単なのは外貨建て資産を一定程度保有することだ(その具体的な方法については近著『大震災の後で人生について語るということ』で書いているので、合わせて参考にしてほしい)。

農耕社会では、祖先から土地を受け継ぎ、それが子孫へと伝えられていく。土地を奪われれば死ぬしかないのだから、土地と人生はつねに一体化していた。その延長で、私たちはごく自然に、国家と自分の運命を同一視してしまう。

日本の財政赤字は1000兆円を超え、巷には「国家破産」の予言があふれている。だが、国家の破産はただちに個人の破滅を意味するわけではない。

年金しか生きる術のないひとたちは、国家に経済的に依存している。資産の大半が日本円なら、ひとたび円が信用を失えばその価値は大きく毀損してしまうだろう。東日本大震災で目にしたように、世界は不確実で、日常の基盤はふいに失われてしまうのだ。

だとしたら私たちにいま必要なのは、国家のリスクを個人のリスクから切り離すことだ。日本の政治に人生のすべてを託すことができないのなら、それが来るベき衝撃に備える唯一の方法になるだろう。

 『週刊ダイヤモンド』2011/10/08号
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