日本人は中国人に謝罪すべきか(2)

ヒトは社会的な動物なので、私たちは生得的に、ひとの集団を「ひと」と見なすようにプログラムされて生まれてくる。

近代的な市民社会は自由と自己責任を原則とする市民(個人)によって構成されるが、実態としては、さまざまなひとの集団が協調したり対立したりして社会を動かしている。ひとの集団をいっさい認めず、すべてを個人に還元してしまうと、社会を適切に管理・運営できなくなるのだ。

こうした矛盾を回避するための方策として考え出された便利なアイデアが、ひとの集団にも法的な人格を認める「法人」だ。私たちの社会でもっとも馴染みのある法人は会社で、その権利や義務は会社法で規定されている。

法人に対しては、古くから法人擬制説(法人は仮の姿でその実態は自然人にある)と法人実在説(法人は実在するひとである)が対立しているが、この込み入った議論にはここでは踏み込まない(興味のある方は『貧乏はお金持ち』を参照)。ただいずれの立場を取るとしても、法人自体は観念的な存在なので、それを実体化するために、共同体の代表者(代理人)としての自然人を必要とするのは同じだ。会社法では、株式会社の所有者は(自然人である)株主であり、株主から指名された会社の代理人が代表取締役に就任する。

ではここで、次のようなケースを考えてみよう。

ある会社が猛毒の汚染物質を排出し、近隣に甚大な被害を与えた(たくさんの死者と、それを上回る膨大な数の後遺症に苦しむひとたちが生まれた)。ところがこの会社は経営破綻してしまい、事故とはなんの関係もない外国人の株主に買収され、経営陣もすべて外国人と交代した。

そこで、新しい社長(代表取締役)が患者や遺族に対して次のように述べたとしよう。

「会社法によれば、会社は株主の所有物であり、すべての責任は最終的には株主が負うことになっている。公害発生時の株主は、有限責任とはいえ、株券が紙くずになるという責任をすでにとっている。現在の株主は不幸な事故とはなんの関係もなく、そもそも責任をとることができない。したがって、今後いっさいの賠償には応じられない」

そうとうに理不尽な話だが、法律的にはこの議論は成立する(買収時に、遺族や被害者への賠償を含む負債を引き継ぐ契約をしていれば別だ)。しかし私たちは、直感的に、これは「正義」に反すると確信するだろう。

しかしそれでは、公害とは無関係の外国人株主に対して、「個人として責任をとれ」と言えるだろうか。「株主になった以上、事件にまったく関与していなくても、一人ひとりが被害者のもとを訪れて謝罪するのが当然の義務だ」と強硬に主張するひとは、きわめて少数にちがいない。

だが実際には、私たちはこうした問題で深く悩むことはない。ごく自然に、株主の(個人としての)責任と、会社の(法人としての)責任を分けて考えるからだ。すなわち、株主個人には責任はないが、事業を継続している以上、会社には法人という「ひと」としての責任があるのだ。

では次にこの議論を、サンデル教授のいう「先祖の罪(戦争責任)」に援用してみよう。

最初に気づくのは、サンデル教授の議論では、「誰が謝罪するのか」という責任の主体がよくわからないことだ。すくなくとも著書(『これからの「正義」の話をしうよう』)を読むかぎりでは、コミュニタリアンは共同体の物語(歴史や伝統)を自らの意思で引き受けるのだから、先祖の罪に対しても(個人として)謝罪すべきだ、と解するほかはない。しかしこれは、控えめにいってもそうとうに奇妙な主張だ。

たとえばサンデル教授はアメリカの主流派白人として、黒人奴隷をアフリカから輸入したことや、ネイティブアメリカンの土地を武力によって強奪したことを、個人として謝罪するのだろうか。もしそうだとして、奴隷解放後に自らの意思でアメリカに渡ってきた黒人は謝罪の対象になるのか。あるいは他の人種との混血でネイティブアメリカンの血を16分の1だけ受け継いでいるひとには、その分だけ謝罪を割り引くのか。それ以前に、こんなことをしていては町を歩くだけでひたすら謝罪を繰り返さなくてはならず、謝っているうちに一生が終わってしまうだろう。

それではサンデル教授は、「法人としての国家(共同体)は先祖の罪に対して責任を負うべきだ」と述べているのだろうか。だがそうなるとこんどは、「道徳的個人主義」に対する教授の批判が破綻してしまう。道徳的個人主義者は個人としての責任は認めないかもしれないが、法人としての責任を積極的に支持することは十分にあり得るからだ(というか、これが「リベラル」の本質だ)。

法人と個人を異なる「ひと」と考えると、保守主義者とリベラル派の奇妙な歪みがすっきり説明できる。

保守主義者は自分(個人)と国家(法人)を重ね合わせて考えるので、国家への攻撃(侮辱や非礼を含む)には激しく反応し、国家として謝罪することにはきわめて慎重だ。それに対してリベラル派は個人と国家を分けて考えるので、自分の国に対して、過去の罪を認め謝罪するよう声高に要求できる。

そしてここから、保守主義者とリベラル派のあいだに横たわる深い亀裂(嫌悪感)の正体も見えてくる。

リベラル派は個人と国家を分離することが洗練された市民社会の条件だと思っているので、国家を自分の分身のように扱う保守主義者は気味が悪い。一方、保守主義者の側からすれば、リベラル派は個人と国家を分離することで自らを安全圏に置き、自分勝手な正義感から国家(日本)に謝罪を要求する。これは、偽善以外のなにものでもない。

このように保守主義者とリベラル派は不倶戴天の敵のように互いに憎みあっているが、それでも両者が合意できることが(おそらくは)ひとつだけある。それは、「日本人は中国人に謝罪できない」ということだ。なぜこのような理屈になるのか、その理由は簡単だ。

会社法では、法人の行為に責任を負えるのは正当な手続きで株主から選任された代表取締役のみと決められている。代表権のないそれ以外の人間(一株主)が、勝手に謝罪したり、賠償の約束をしたりすることはできない。

国家を法人と考えれば、仮に過去の侵略戦争に対して謝罪すべきだとしても、それができるのは国家の正当な代理人である内閣総理大臣だけだ。総理大臣の命を受けた外務大臣や外交官は別として、それとは無関係な私たち一般人には、そもそも「国家を代表して」中国人に謝罪する権限はない。

サンデル教授は、「コミュニタリアンは(個人として)先祖の罪に責任を負うべきであり、それこそが正義(美徳)だ」と述べる。だが国家=法人説では、コミュニタリアンであれ自由主義者であれ、正当な代理権のない個人が国家の歴史に対して勝手に謝罪してはならない(もちろん、謝罪すべきだという政治的意思を表明するのは自由だ)。

だが話はこれだけでは終わらない。「誰に対して謝罪するのか」という、よりやっかいな問題が残っているからだ。