「脱税のツケ」米富裕層の憂鬱 『日経ヴェリタス』2009年8月30日号

勝率9割、負ければ窮地

それでは、ゲームのルールを説明しよう。

UBSに口座を開く際の最低預金額は300万ドルだから、プレーヤーであるあなたは3億円を預けていることになる。  意図的に脱税を工作したわけではなく、たんに利益を申告しなかっただけのあなたは、この海外口座を税務当局に報告することにした。

IRSは自主申告の軽減措置を認めているが、それでも過去6年間の口座の最高残高に対し5〜20%の罰金が課される。これに州税を含む追徴課税や延滞税を加えると、IRS自身の試算で、支払総額は口座残高の約40%になる。すなわち、あなたは1億2000万円を失う。

UBSが開示するのは5万2000件の米国人口座の1割弱で、IRSは残りの名前を知ることができない。今回の和解で、米司法当局が情報開示の新たな訴訟をUBSに対して起こすことはできなくなったから、そのまま隠し通せば、あなたは9割の確率で1億2000万円の罰金を逃れることができる。

それに対して不幸にもリストに名前があると、軽減措置の恩恵は認められず、口座残高をはるかに上回る7億円(追徴課税などを含むIRS試算)の支払を請求される。米国の税法では脱税に対し、過去3年間のそれぞれの年ごとに、口座残高の最高額の50%を罰金として課すことができると定められているからだ。そのうえ悪質と見なされれば、訴追されて監獄に放り込まれることにもなりかねない。

この“地獄のポーカー”では、ゲームから下りるのに資産の40%を放棄しなければならない。一方、勝負を選択すれば、賭けに勝つ確率は9割だが、運悪くジョーカーを引くと破滅は免れない。脱税の罰金は自己破産しても減免されず、地位と名誉と財産のすべてを失ったうえに、莫大な債務を抱え汚辱にまみれて余生を送らなければならないのだ。

そのうえ、あなたに幸運の女神が微笑んだとしても、この悪夢は終わらない。米国の税法には、脱税について時効の規定がない。遠い将来、IRSがなんらかのきっかけで口座の存在を知ったら、延滞税を含む追徴額は天文学的な数字になるだろう。

米国は、世界でもっとも苛烈な税法を持つ国として知られている。これは、人類の理想を体現する実験国家としての出自と無関係ではない。脱税とは理想社会建設の夢を否定し、星条旗を裏切る重罪なのだ。

タックスヘイヴンに圧力

米司法当局とIRSは、UBSとの裁判を突破口に、タックスヘイヴンに対する圧力をさらに強めようとしている。

UBSはかつて70〜80人のプライベートバンカーを、観光旅行を装って米国に出張させ、脱税幇助をもちかけて富裕層を勧誘していた。こうした行為が可能だったのは、スイスと米国で脱税に関する規定が異なるからだ。UBSのビジネスモデルとは、スイスの主権を利用して米国の主権を侵害するというものだった。

タックスヘイヴン(オフショア)の金融機関は、多かれ少なかれ他国の主権を侵害することから利益を得ている。だとすれば米国の追及がUBS以外に拡大するのも時間の問題で、すでにクレディスイスやジュリアス・ベアなどスイス系大手プライベートバンクの名前が報じられている。

IRSの自主申告プログラムは、UBSだけでなくすべての海外口座が対象となる。その期限である9月23日を前にして、プライベートバンクの顧客の多くがゲームから下りる道を選んだ。彼らはIRSに対し、脱税に加担したプライベートバンカーや、弁護士・会計士など仲介者の詳細な情報を提供するだろう。

ドイツやフランス、イタリアなどヨーロッパの国々も、スイスやルクセンブルクの「有害税制」に強い批判を続けている。これらの国々で米国と同様の訴訟が起こされれば、その影響は計りしれない。繁栄を謳歌した“金融立国”は、四面楚歌ともいうべき状況に追い詰められている。

プライベートバンクは、顧客の資産を守る強固な守秘性によって揺るがぬ信用を勝ち得てきた。だがいま、見捨てられ絶望した顧客たちの怨嗟のなかで、その貴重な財産は失われつつある。名門銀行にふたたび輝く日が訪れるかどうか、誰も知らない。

『日経ヴェリタス』2009年8月30日号

*事件の経緯および米国の税法に関してはNew York TimesとWall Street Journalの記事を参考にした。