第11回 本人確認ゆるい「マネロン天国」

平凡なセールスマンだったグレーゴル・ザムザは、ある朝目を覚ますと巨大な毒虫に変わっていた。カフカの『変身』は、現代人が抱えるアイデンティティの不安を描いた20世紀文学の金字塔だ。

僕たちの社会では、アイデンティティ(私が私であること)は国家が発行する身分証明書によって確認できる。グローバルスタンダードでは、その証明方法は顔写真とサインだ。

ところが“ハンコ原理主義”の日本では、この条件を満たす身分証明書はパスポート(と国際免許証)しかない。顔写真のある身分証明書は運転免許証くらいで、健康保険証にはサインはおろか顔写真すらない。

日本を除く先進諸国では、国民一人ひとりにIDが割り当てられているのがふつうだ。米国では社会保障番号(SSN)が市民の証明で、この番号がないと銀行口座を持てないし、運転免許証も取得できない。

日本の金融機関には、もうひとつ驚くべき特徴がある。運転免許証や健康保険証のコピーだけで銀行・証券会社の口座がつくれるのだ。こんな国は、すくなくとも先進国にはほかにない。

もちろん、わざわざ窓口まで行かないと口座開設できないのではものすごく不便だ。そこで欧米の金融機関は、認証されたコピーを原本の代用とすることを認めている。

「コピーの認証」は日本では馴染みがないが、法律で認められた資格者(弁護士・公認会計士や国家公務員など)が、コピーが原本と相違ないことを証明する行為だ。これによって、サインや身分証明書の偽造による犯罪を防ぐことができる。

ところが日本にはもともとコピーを認証する習慣がなく、公証役場はパスポートや運転免許証など公文書の認証ができない。こうした不都合が重なって、金融機関は顔写真のない身分証明書のコピーで口座を開けるしかなくなったのだ。

国際的なマネーロンダリング規制の強化に合わせ、金融機関では本人確認の厳格化が進められている。とはいえ、身分証明書がパソコンで好きなように加工できるなら、どんな対策もザルで水をすくうようなものだろう。

「脱税の温床」と批判されるスイスや香港でも、口座開設には、(顔写真とサインを確認したうえで)パスポートのコピーを弁護士や大使館員に認証してもらう必要があるのだ。

金融当局は認めたくないだろうけど、日本ほど匿名(偽名)口座のつくりやすい国は世界でもまれだ。振り込め詐欺のような奇妙な犯罪が蔓延するのはそのせいだろう。

匿名の口座や偽名のATMカードがあれば誰にも知られずに現金を入出金できる。これでは犯罪を誘っているようなものだ。日本の銀行や証券会社は、顧客がどこの誰なのかわからない口座を膨大に抱えているにちがいない。

“マネロン天国”の日本では、金融機関はどこもアイデンティティの不安に怯えている。それはカフカが描いた不条理の世界そのものだ。

橘玲の「不思議の国」探検 Vol.11:『日経ヴェリタス』2010年5月16日号掲載
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